だれかに話したくなる本の話

明治維新150年の今だからこそ知っておきたい幕末日本のスゴい取り組み(1)

今年2018年は「明治維新150周年」。
NHKの大河ドラマでは「西郷どん」が放送され、いつになく幕末から明治という時代に注目が集まっている。

ところで、この時代は日本が産業面や経済面で長足の発展を遂げた大成長の時代でもある。『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』(集英社刊)は、2015年にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の歴史的意義を史料価値の高い当時の写真を交えて紐解くことで、幕末から明治の日本の実像に迫る。

今回は著者で経済評論家の岡田晃さんにインタビュー。幕末の日本で始まった近代化について、その一端を語っていただいた。

■今の日本に見える幕末との共通点

――『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』は、日本の近代化の夜明けともいうべき幕末にスポットライトを当てて、当時の人々の取り組みと功績を紹介していきます。まずは、なぜ今このテーマで本を書こうと思ったのかについてお聞かせ願えますか?

岡田:私はもともと経済記者で、今も経済をテーマに取材したり、情報発信をしています。その仕事の中で、これからの経済がどうなっていくのかを考えるためにはやはり歴史から学ぶことが重要だと思うようになりました。それで時代を遡って調べていったら、幕末と今の日本との間の共通点に気づいた。

具体的にいえば、バブル崩壊以降長く経済が低迷して、ここ数年ようやく景気が上向いてきたとはいえまだまだがんばらないとこの先大変な未来が待っている、という今の日本は、長い鎖国下で経済が停滞した後の幕末の日本によく似ています。当時は西洋文明との本格的な接触があり、開国ありと、様々な刺激を受けたことで危機感を持った人々の努力によって明治以降の近代国家の基礎ができました。

もちろん、当時のことをそのまま現代日本に当てはめることはできませんが、我々が今何をすべきかということを考えるうえで参考になる部分が多くあります。日本経済がさらに元気になっていくためのヒントがこの時代にはあるのではないかと感じて、幕末日本の近代化の取り組みをまとめました。

――確かに、この本からは日本と日本人へのエールのようにも読めます。

岡田:そうですね。もう一つ、付け加えるなら2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界遺産に登録されたことも、この本を書いたきっかけになっています。

今お話ししたような問題意識を持っていた時に、講演で鹿児島に行って地元経済界の方々と交流する機会があったのですが、皆鹿児島の史跡をすごく重要視していて、それを他県の史跡と合わせて世界遺産にできないかという運動を始めていました。

微力ながら、私もその運動を手伝うようになったのですが、念願かなってそれが実現したので、その意義をこの本でまとめたかったというのもあります。

――産業遺産の世界遺産登録ということでいうと、2014年に登録された富岡製糸場が頭に浮かびます。

岡田:富岡製糸場も明治時代の産業遺産で、同じような歴史的価値をもっています。富岡製糸場は軽工業の代表格で、今回の本で取り上げた製鉄・製鋼、造船、石炭産業は重工業ですね。

実はこちらには富岡製糸場のように単独で世界遺産に登録されるような遺産はないのですが、その代わりに全部で23ヶ所の施設をひとまとめにすると、当時の時代背景が見えてくる。そこに意義があると評価されました。

表紙

――長州藩や薩摩藩、佐賀藩、水戸藩など、本書では日本各地での近代化の取り組みが紹介されていますが、どの藩も相当な試行錯誤と苦労を重ねています。鎖国下であった当時の工業技術の水準はどのくらいのものだったのでしょうか。

岡田:工業分野はまだ家内制手工業のレベルで原始的なものでしたが、職人の技術は高度だったようです。

たとえば刀を思い出していただきたいのですが、西洋の「剣」が直線的な形をして「突く」のに便利なように作られているのに対して、日本刀は「斬る」ために作られています。そのために切れ味がいいだけでなく、非常に美しい曲線でそった形です。このような刀を作るためには高い製鉄技術が必要で、その代表格が伝統的な「たたら製鉄」でした。特に南部鉄器で有名な盛岡藩はこのたたら製鉄による製鉄技術が高かった。日本初の洋式高炉がこの地の釜石に作られたというのは、そのことと無関係ではありません。それが官営の釜石製鉄所となり、のちの新日鐵釜石へとつながっていきます。

つまり、明治以降の工業の近代化にしても全てが海外から入ってきたものではなく、それ以前からあった技術的土台の上に築かれた。昔からあった技術を新しく入ってきた西洋の技術と組み合わせることに長けていたことが、日本の近代化が他の国より早く進んだ要因の一つだといえます。
(後編につづく)

明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった

明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった

「日本の奇跡」と言われる明治の産業革命の礎は、幕末のサムライたちによって準備されていた。製鉄、造船、石炭産業の現場では、藩の垣根を超えて技術を共有し、奮闘する人々の熱いドラマがあった!

製鉄のもととなった伊豆の反射炉の技術は、佐賀藩と伊豆の代官・江川英龍が協力して研究が始まり、佐賀から薩摩へ、さらに水戸藩を経由し、最終的には釜石の洋式高炉に結実した。それが明治時代に官営釜石製鉄所や官営八幡製鉄所へとさらなる発展を遂げ、現在の新日鉄住金に至る。

造船に関しては、島津斉彬の命を受けて幕府の長崎海軍伝習所で学んだ薩摩藩士・五大友厚は、トーマス・グラバーらと共に長崎の小菅修船場を建設した。これが現在の三菱重工長崎造船所につながっていく。岩崎弥太郎、弥之助、久弥の3代に渡る三菱重工業の社長たちの事業拡大の歴史とも重なる。

“軍艦島“で知られる石炭産業の発展においては、福岡藩士だった團琢磨の働きがめざましく、彼の見識と技術導入へのアイデア、決断力が、石炭産業の多大な発展を促した。

幕末から明治の激動の時代に、政治の争いとは無関係に、日本の未来を考えて奔走した若きサムライたちや現場の無名の職人たちの、ひたむきさやチャレンジ精神を感じる熱い一冊。

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新刊JP編集部

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