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明治日本の産業革命遺産

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本書の内容

  • はじめに

    ――明治一五〇年が教える“日本の底力”――
  • 第一章 “西郷どん”や“五代様”を育てた薩摩藩・島津斉彬の挑戦

    ――ピンチをチャンスに変えたリーダー――
  • 第二章 志士の息吹を今に伝える長州・萩

    ――吉田松陰から伊藤博文へ――
  • 第三章 実は近代化のトップランナーだった佐賀

    ――「地方創生」の先駆け――
  • 第四章 知られざる“近代化の父”・江川英龍

    ――改革に命を捧げた伊豆の代官――
  • 第五章 “陰のプロデューサー”トーマス・グラバー

    ――“近代化特区”となった長崎――
  • 第六章 長崎から世界へ

    ――造船大国ニッポンの船出――
  • 第七章 反射炉から釜石、そして八幡へ

    ――産業革命の主役・「鉄」――
  • 第八章 産業革命のエネルギーを支えた石炭産業

    ――育ての親・團琢磨――
  • おわりに ――日本経済再生に向けて――

    つながる二三の遺産――地域を超えた技術伝播――
    日本経済再生へ三つのヒント

解説

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」が2015年にユネスコ世界遺産登録されたのは記憶に新しい。八幡製鉄所や軍艦島、三池炭鉱、韮山反射炉といった施設は、日本の近代化の原点であり、「ものづくり大国」の礎である。

ところで、近代化といってイメージできるのは、動力が蒸気機関に変わったり、より高度な製鉄技術が発達したりといったことだが、これらが始まったのはいつだろうか?

嘉永6年(1853年)のペリー来航によって日本の近代化の号砲が鳴った、というように覚えている人は少なくない。つまり、アメリカに迫られて開国したことで海外の技術が日本に入ってくるようになったことが近代化に繋がったという認識だが、これは少し違う。

ペリー来航の50年前から日本の近海には外国船が姿を見せはじめ、各地で紛争が起きていた。こうした異国との摩擦から危機感を持った藩もあり、こうした藩では自己防衛の手段として蒸気機関の開発や製鉄所の敷設が独自になされていた。ペリー来航は各藩が感じていた危機感に拍車をかけた出来事にすぎない。

「西郷どん」で注目 薩摩藩が強大な軍事力を手にできた理由

顕著なのは薩摩藩である。大河ドラマ「西郷どん」で描かれている西郷隆盛や大久保利通といった幕末の傑物が思い出される薩摩藩だが、身分の低かった彼らを登用したところからもわかるように、当時の藩主・島津斉彬は先見性のある人物だった。

斉彬もまた、度重なる海外船の目撃情報に危機感を募らせていた。薩摩藩内に英国人が上陸し村を襲うという事件もあって、西洋に対抗するための軍事力と経済力を身につける必要を感じた彼は、薩摩の地に一大工業地帯を作ることを思い立った。これが1851年にスタートした「集成館」の事業である。ペリー来航の2年前の出来事だ。

この集成館は当時の日本では最大規模の工業地帯であり、大砲の鋳造、造船、機械・紡績などの工場が立ち並んでいた。とはいえ、鎖国下の日本で手に入る情報はたかが知れている。鎖国下で技術的進歩は止まっており、まさに「ゼロからのスタート」である。このあたりは今のスタートアップと共通点があるかもしれない。

大砲鋳造を例に挙げれば、反射炉と呼ばれる鋳鉄施設が必須となるが、薩摩藩が持っていた情報は、一足先に反射炉建設に乗り出していた佐賀藩から取り寄せた翻訳書が一冊のみ。「西洋人や佐賀藩にできて、薩摩人にできないはずはない」と鼓舞する斉彬だったが、そううまく行くはずもない。

ただ、薩摩藩は試行錯誤と工夫でこの難しい仕事を成功させた。自藩の伝統技術「薩摩焼」の応用である。陶器づくりの技術によって、高温にも耐えられる耐火煉瓦を作ることができると考えた斉彬は陶工に命じて、研究開発にあたらせた。

集成館内に登り窯を作って焼いた耐火煉瓦によって高温に耐えられる反射炉が完成。並行して開発していた熔鉱炉も完成したことで西洋式の大砲を配備でき、薩摩藩は日本屈指の軍事力を手にすることができた。

危機感が進化を速めると言われるが、西洋勢力に脅かされた幕末の藩士たちが何もないところから創意工夫を発揮してすさまじい速さで技術を発達させる様子はこの言葉を裏付けるようだ。

本書では、薩摩藩よりも早く近代化に乗り出した佐賀藩や長州藩などの取り組みも紹介されているが、どの藩も皆とにかく諦めが悪い。

ヒト・モノ・カネ、そして技術、ないものばかりの状況でも諦めずに事を成そうとする「どうにかしてやろう精神」は私たちが忘れかけているものだろう。本書で描かれる開国前夜を生きた「ラストサムライ」たちの姿からは、私たちも学ぶべきものは多い。
(新刊JP編集部)

著者インタビュー

今年2018年は「明治維新150周年」。
NHKの大河ドラマでは「西郷どん」が放送され、いつになく幕末から明治という時代に注目が集まっている。

ところで、この時代は日本が産業面や経済面で長足の発展を遂げた大成長の時代でもある。『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』(集英社刊)は、2015年にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の歴史的意義を史料価値の高い当時の写真を交えて紐解くことで、幕末から明治の日本の実像に迫る。

今回は著者で経済評論家の岡田晃さんにインタビュー。幕末の日本で始まった近代化について、その一端を語っていただいた。

今の日本に見える幕末との共通点

―― 『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』は、日本の近代化の夜明けともいうべき幕末にスポットライトを当てて、当時の人々の取り組みと功績を紹介していきます。まずは、なぜ今このテーマで本を書こうと思ったのかについてお聞かせ願えますか?

著者、岡田晃さん写真

私はもともと経済記者で、今も経済をテーマに取材したり、情報発信をしています。その仕事の中で、これからの経済がどうなっていくのかを考えるためにはやはり歴史から学ぶことが重要だと思うようになりました。それで時代を遡って調べていったら、幕末と今の日本との間の共通点に気づいた。

具体的にいえば、バブル崩壊以降長く経済が低迷して、ここ数年ようやく景気が上向いてきたとはいえまだまだがんばらないとこの先大変な未来が待っている、という今の日本は、長い鎖国下で経済が停滞した後の幕末の日本によく似ています。当時は西洋文明との本格的な接触があり、開国ありと、様々な刺激を受けたことで危機感を持った人々の努力によって明治以降の近代国家の基礎ができました。

もちろん、当時のことをそのまま現代日本に当てはめることはできませんが、我々が今何をすべきかということを考えるうえで参考になる部分が多くあります。日本経済がさらに元気になっていくためのヒントがこの時代にはあるのではないかと感じて、幕末日本の近代化の取り組みをまとめました。

―― 確かに、この本からは日本と日本人へのエールのようにも読めます。

岡田:そうですね。もう一つ、付け加えるなら2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界遺産に登録されたことも、この本を書いたきっかけになっています。

今お話ししたような問題意識を持っていた時に、講演で鹿児島に行って地元経済界の方々と交流する機会があったのですが、皆鹿児島の史跡をすごく重要視していて、それを他県の史跡と合わせて世界遺産にできないかという運動を始めていました。

微力ながら、私もその運動を手伝うようになったのですが、念願かなってそれが実現したので、その意義をこの本でまとめたかったというのもあります。

―― 産業遺産の世界遺産登録ということでいうと、2014年に登録された富岡製糸場が頭に浮かびます。

岡田:富岡製糸場も明治時代の産業遺産で、同じような歴史的価値をもっています。富岡製糸場は軽工業の代表格で、今回の本で取り上げた製鉄・製鋼、造船、石炭産業は重工業ですね。

実はこちらには富岡製糸場のように単独で世界遺産に登録されるような遺産はないのですが、その代わりに全部で23ヶ所の施設をひとまとめにすると、当時の時代背景が見えてくる。そこに意義があると評価されました。

―― 長州藩や薩摩藩、佐賀藩、水戸藩など、本書では日本各地での近代化の取り組みが紹介されていますが、どの藩も相当な試行錯誤と苦労を重ねています。鎖国下であった当時の工業技術の水準はどのくらいのものだったのでしょうか。

岡田:工業分野はまだ家内制手工業のレベルで原始的なものでしたが、職人の技術は高度だったようです。

たとえば刀を思い出していただきたいのですが、西洋の「剣」が直線的な形をして「突く」のに便利なように作られているのに対して、日本刀は「斬る」ために作られています。そのために切れ味がいいだけでなく、非常に美しい曲線でそった形です。このような刀を作るためには高い製鉄技術が必要で、その代表格が伝統的な「たたら製鉄」でした。特に南部鉄器で有名な盛岡藩はこのたたら製鉄による製鉄技術が高かった。日本初の洋式高炉がこの地の釜石に作られたというのは、そのことと無関係ではありません。それが官営の釜石製鉄所となり、のちの新日鐵釜石へとつながっていきます。

つまり、明治以降の工業の近代化にしても全てが海外から入ってきたものではなく、それ以前からあった技術的土台の上に築かれた。昔からあった技術を新しく入ってきた西洋の技術と組み合わせることに長けていたことが、日本の近代化が他の国より早く進んだ要因の一つだといえます。

清国の敗戦に仰天!幕末の大名が軍備増強に踏み切ったワケ

著者、岡田晃さん写真

―― 本にも書かれていましたが、日本の近代化の原動力となったのは西洋の進んだ軍事力と工業力を見せつけられることで生まれた危機感でした。この危機感を早い時期から持っていたのは、佐賀や薩摩、長州など西日本の藩に多かった印象です。

岡田:そうですね。特に九州には当時唯一の外国への窓口だった長崎がありますので、海外の情報が入りやすかったんです。そこへ中国でアヘン戦争が起きると、当時アジア最大の大帝国だった清がイギリスにいとも簡単にやられて、香港が植民地になってしまった。そういう情報が入ってきて西の方の藩は驚いたでしょうし、すぐ近くまでイギリスが来ているという脅威を感じていたはずです。実際、薩摩藩主だった島津斉彬はアヘン戦争の情報を事細かに集めていて、「阿片戦争聞書」という記録を遺しています。

また、ペリーが浦賀にやってくる前、1800年代に入った頃から九州の近海ではイギリスや他の国の船が頻繁に目撃されていましたし、今でいう西南諸島の小さな島にイギリス人が上陸して島民を襲ったという事件も起きていました。そういうことがあって自衛の必要を感じていたわけですが、どうやら向こうは鉄の大砲と巨大な蒸気船を持っているらしいと。

―― 軍事力で圧倒的に劣っていた。

岡田:当時の日本の軍事力は刀と鉄砲ですからね。まして徳川幕府は謀反を警戒して近代的な銃や大型船の建造を全く認めていなかったんです。だから銃の技術も1600年頃の火縄銃から基本的に進歩していませんし、一番大きな船でも五十石や百石の北前船。もちろん蒸気機関はありませんから帆船です。

しかし、薩摩藩や長州藩は幕府の禁を無視して自力で船や大砲を作り始めたんです。その頃になると幕府の威光は衰えていましたしね。

最初は鉄の船など作れませんから、大型の木造船を建造するのと、あとは蒸気機関の開発です。これは書物を頼りに作らせた。島津斉彬は鹿児島で建造した木造の大型船を江戸湾まで引っ張ってきて、江戸で完成させた蒸気機関を搭載して、あちこちの大名を呼んで自慢していたらしいです。

―― ペリー来航の前に日本の近代化が始まっていたというのは、知らない人が多いかもしれません。

岡田:蒸気船が完成したのはペリーが来た後ですが、研究自体はその前から始めていますし、佐賀藩が大砲製造用の反射炉を完成させたのはペリーが来る前です。

開国して西洋からの知識や情報が本格的に入ってくる前に、先進的な藩は書物で情報を集めて、藩士に命じて独自に研究していたというのはすごいことですよね。

―― 九州や西日本の藩以外にも、外国への危機感を持っていた藩はあったのでしょうか。

岡田:水戸藩や盛岡藩などでも危機感を持って海防強化や近代化に取り組み始めていました。藩でなく幕府の中にもそういう人はいて、伊豆にいた代官の江川太郎左衛門は軍備を増強すべきだと何度も提言していました。

当時の伊豆の位置づけというのは、江戸への海からの侵入を防ぐための「江戸湾の防波堤」でした。西日本の大名が謀反を起こした場合、伊豆で船での侵入を食い止めるという発想だったのですが、この時代になると外国船を食い止めるという発想も生まれていました。

ところが現実にはペリーが伊豆を通り越して浦賀沖まで入ってきてしまった。驚いた幕府は江川太郎左衛門に命じて江戸湾にお台場を築き、伊豆の韮山に反射炉を作ったんです。

―― 本書のテーマである「経済」についてですが、近代化によって日本の経済力はどれほど伸びたのでしょうか。

岡田:薩摩藩や長州藩、佐賀藩などは軍備を増強するために工業化を進めたわけですが、製鉄にしても造船にしても、設備を整えるためにはお金が必要ですから、自藩の産業を発展させました。

幕府の目があるからおおっぴらにはできませんが、薩摩などはこっそりと琉球や中国を相手に密輸もしていたようですし、島津斉彬などは工業化と並行して農業振興もかなりやっていた。江戸時代は今のように国からの補助金はありませんから、各藩は自力で藩を富ませないといけなかったんです。今で言う成長戦略であり、地方創生の先駆けとも言えます。

余談ですが、薩摩藩は鉄砲の弾を発射する起爆剤として大量のアルコールが必要でした。

アルコールの原料といえば米ですが、米は貴重です。だからサツマイモを使ってアルコールを作ろうと、サツマイモの栽培を奨励しました。それによって鉄砲で使うアルコールの他に、イモ焼酎の生産が増えました。それに合わせてイモ焼酎のにおいを抑える研究もしたそうです。今に繋がる薩摩の芋焼酎の元祖です。軍備を整えて、農業を振興させ、さらには食生活も豊かにするという、一石三鳥の知恵ですよね。

船も元々は軍艦が目的でしたが、次第に民生利用もされるようになって、民間の船も近代化されていきましたし、大砲の製造によって機械部品の製造や金属加工の技術が向上したということもいえます。こうした軍備増強の取り組みによって後の近代産業の基礎ができたところもあるんです。

大事なことは、経済力を高めることに成功した藩が明治維新の主役になったということです。

―― 今の時代に生きる私たちが、本書の中で書かれているような近代化に尽力した幕末の人々から学ぶものがあるとしたら、どのようなものだとお考えですか?

岡田:一つは「とにかく諦めないこと」です。職人の技術は高かったというお話をしましたが、とはいえ何もない中でスタートして、わずか30年という、バブル崩壊から今までと同じくらいの年月で工業の近代化を成し遂げてしまった。もちろん、途中で何度も失敗していますし、何度も諦めかけています。それでも決して投げ出すことなくやり遂げた。

単に粘り強かったということだけでなく、時代に後押しされたところも大いにありますが、彼らの諦めない不屈のチャレンジ精神には、今の元気をなくした日本にとって学ぶところがあるのではないでしょうか。

そしてもう一つは「日本経済はまだまだ捨てたものじゃない」ということです。この本で取り上げた幕末の先人たちが築き上げたものの上に、私たちの経済は成り立っています。しっかりとした土台があるわけですから、その上に新たにパワーアップした日本を築いていけばいい。

この本を読んで、当時の人々の熱気を感じ、新しい社会を作ろうとした志の高さを知っていただけたらうれしいですね。
(新刊JP編集部)

書籍情報

著者プロフィール

岡田 晃

大阪経済大学客員教授。
1971年 慶応義塾大学経済学部卒業後、日本経済新聞入社。
1987年 日本経済新聞編集委員
1991年 日本経済新聞編集委員・テレビ東京出向
1994年 テレビ東京報道局経済部長、『ワールドビジネスサテライト』プロデューサー
1998年 テレビ東京ニューヨーク支局長 2000.12.12 テレビ東京アメリカ初代社長
2003.8.1 テレビ東京理事・解説委員長 テレビコメンテンター多数。