「魏志倭人伝」と日本のルーツを探る旅
魏志倭人伝と大和朝廷の成立

魏志倭人伝と大和朝廷の成立

著者:藤田 洋一
出版:幻冬舎
価格:990円(税込)

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本書の解説

「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。

日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う

だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。

『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。

邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。

「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。

使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。

実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。

本書では、ここでユニークな仮説を立てている。

わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)


つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。

本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。

では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。

本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。



邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。

この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。

(新刊JP編集部)

インタビュー

■「邪馬台国論争」で「魏志倭人伝」から導き出された新説

『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』は日本史の長年の謎への新たなアプローチがされていて刺激的でした。藤田さんが弥生時代末期から大和朝廷成立までの時期に関心を持たれたきっかけをお聞きしたいです。

藤田: 私は今沖縄で生活しているのですが、沖縄の人は本土のことを「ヤマトウー」と言うんです。それを聞いて「これは邪馬台のことを言っているのではないか」と考えたのがきっかけです。

最初は「ヤマトウー」という音がきっかけだったんですね。

藤田: そうです。そこから、当時のことを知る唯一の手がかりといっていい「魏志倭人伝」を読むようになったのですが、その過程で、「ヤマトウー=邪馬台国」という発想と結びつく別の発見がありました。

「邪馬台国」の「台」の字は、江戸時代以前は旧字の「臺」だったのですが、実は「魏志倭人伝」のオリジナル版では「壹」が使われて「邪馬壹国」と書かれているんです。この文字だと「豆」が入っているので「ヤマトウ」と読めますよね。だから、邪馬台は「ヤマトウ」がオリジナルで、それが変化して「ヤマト(大和)」になったのではないかと考えています。

どのような過程で「壹」が「臺」に変わったと考えているのでしょうか。

藤田: 昔は書物を残すためには「写本」しかありませんでした。本を書き写す過程で写しまちがえたり、あるいは意図的に文字を変えたりということがあったのかもしれません。

当時朝鮮半島の南端が倭国の一部だったというのは初めて目にする意見でした。この考え自体は一般的なものなのでしょうか。

藤田: 一般的かどうかはわかりませんが、「魏志倭人伝」にははっきり朝鮮半島の南端にあった「狗邪韓国」が倭国の北限だと書いてあります。どうして倭の一部が朝鮮半島にあったのかはわからないところがあるのですが、「魏志倭人伝」を見ると、弥生時代の日本はまだ文明が発達していなかったわけです。

原始人と変わらないような生活をしていたようですね。

藤田: ところが古墳時代になると石室をともなった広大な古墳が突如出現する。文明の発達度にかなりギャップがあるんですよ。でも、当時から文明が進んでいた朝鮮半島との間に交流があって色々なことを学んでいたと考えると、朝鮮半島の一部が倭だったというのはありえるのかなという気がします。

邪馬台国の場所については「九州説」と「畿内説」が有力とされてきましたが、本書では畿内でも大和にあったのではないかとしています。大和にあったと仮定すると、すべての辻褄が合うのでしょうか。

藤田: 元々大和であったものを中国人が現地の人の発音からヤマトウーと書いたわけで、後で勝手に「邪馬台国」などと読み直して問題を複雑にしただけだと考えています。その辺りはこの本の中で全容を解説していますので読んでみていただきたいです。

個人的には「魏志倭人伝」の中の邪馬台国の場所についての記述の解釈が面白かったです。朝鮮半島から現在の福岡県のあたりにあったとされる不弥国にやってきた魏の国の使節団が船で「南に二十日」、そして「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」ことで邪馬台国に至ったとあるのですが、「南に二十日」が嘘で実は「東に二十日」だったのではないかと本書では仮説を立てています。ただ「嘘の行程が書かれている」という可能性を入れてしまうと「邪馬台国九州説」を否定できなくなります。この点についてはいかがでしょうか。

藤田: 「船で二十日+十日航行した」と書いてあること自体が嘘と考えるならそういうことも言えると思います。ただ、方向は別にしても「船で移動した」とは書かれています。徒歩で移動しているなら「歩いて何里」と書いたはずです。実際にその前の訪問地についての記述ではそのように書いているので。

それに、彼らは朝鮮半島に帰らないといけませんから、船を放置して長い移動はできません。だから、船で移動したこと自体はまちがっていないのではないかと思います。「九州説」はこの船での移動について説明ができないのです。

あくまで「方角」のところだけ嘘をついた、ということですね。

藤田: そうです。福岡にあった不弥国から船で「南に二十日」だと沖縄の方に行ってしまってどこにも辿り着きません。ただ「東に二十日」とすれば日本海を東に向かって航行し、その後「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」で近畿地方に着くことが想像できます。

あまりにも事実と異なる嘘を書いてしまうと、記録書としての意義がなくなってしまいますから、方角のところだけを事実と変えたのではないでしょうか。

それなら確かに邪馬台国が大和にあったという可能性も出てきます。ただ、なぜ嘘を書いたのでしょうか。

藤田: それは当時の大陸の勢力図を考える必要があります。日本列島から海を挟んで西にあった呉の国は魏と競合していたため、倭の存在は魏にとっては都合がよく、呉にとっては脅威だったはずです。それもあって、魏は倭の場所をできるだけ知られたくなかったのではないかと想像できます。

■現在の日本人のルーツは「南朝鮮」にあり

第2部の大和朝廷の成り立ちについては「フィクション」とされています。このフィクションを作り上げたプロセスについて教えていただければと思います。

藤田: きっかけは韓国ドラマの「朱蒙」を見て、のちに百済を建国した朱蒙の一族の旗が「3本足の烏」であることに気づいたこと。そして大和朝廷にも「3本足の烏」の旗があったこと。大和朝廷と百済が親密な関係にあったようだと考えられることが私のフィクションの原点です。

もう一つは「魏志倭人伝」に「狗奴国」という国が出てくるのですが、この狗奴国が邪馬台国と争っていたんです。それで卑弥呼の邪馬台国は魏に援軍を求めたのですが、断られたということが書かれている。ただ、その結末がどうなったかは書かれていないんです。その空白への想像力も創作のきっかけになりました。

藤田さんはこの戦いの結末はどうなったと考えていますか?

藤田: 私は狗奴国が勝った可能性が高いと考えています。というのも、卑弥呼の娘のトヨについて書かれたあと100年間ほど、中国の歴史書に倭が出てこなくなるんですよ。そしてその空白の間に色々なことが変わりました。邪馬台国の人々は刺青をしていましたが、大和朝廷が成立するとその習慣はなくなりました。あとはお墓ですよね。卑弥呼の時代の埋葬は穴を掘って埋めるだけでしたが、大和朝廷になると古墳ができます。そこには大きな文化の変化があった。

邪馬台国的な文化が消えて別の文化に置き換わった。

藤田: 中国の歴史書に出てこなくなることと、文化が一変したことを考えると、統治者が変わった可能性があるんじゃないかと考えています。

また「古事記」には神話がたくさん書かれているのですが、卑弥呼は出てこないんですよ。もし邪馬台国と大和朝廷に何らかの連続性があるのであれば、「古事記」に卑弥呼のことが書かれていてもおかしくないのですが、一切出てこない。それを考えると邪馬台国と大和朝廷は、場所が同じだけで政治的な連続性はないのではないでしょうか。

そう考えると邪馬台国は滅ぼされたと考えられます。邪馬台国と狗奴国の争いがどうなったかは今となっては知りようがありませんが、おそらく狗奴国が勝ち、邪馬台国に取って代わった。その後に大和朝廷ができたのではないかと思います。

「タケルの遠征」のところがリアリティがありました。行軍のたどった道のりなどはある程度資料などから裏付けられているところがあるのでしょうか。

藤田: 南朝鮮にいた人々(本の中では「ネオモンゴロイド」と呼んでいます)が大和にたどり着くのは簡単ではありません。色々な経過をたどって大和周辺まで来たのでしょう。堺周辺には古墳がたくさんありますし、出雲と吉備が戦ったという記録もあります。

しかし行軍のたどった道のりなどはどこにも資料などはありませんから、想像で書くしかありませんでした。ただ小説内には書きませんでしたが神武東征(神武が東に行った)と言う話が古事記に書かれていて、「八咫烏が神武天皇を大和へ導いた」という話は私が書いたタケルが南朝鮮から堺に移動して最後は大和に行った話と符合すると思っています。

最後に、読者の方々にメッセージをお願いできればと思います。

藤田: 私の文章では、先ほどお話ししたネオモンゴロイドが大和朝廷を作ったとしています。現在の日本人の主だった人々はこのネオモンゴロイドの子孫なのです。このネオモンゴロイドについての研究が遅れているので、今後はこれらの人々について解明される日が近い将来くるだろうと考えています。

実際もし、私の話が本当で、ネオモンゴロイドが大和朝廷を作ったとすると、その周りにいた家臣や一族は当然ネオモンゴロイドですし、それ以降の歴史に出てくる人もその流れを汲んでいるはずです。これは今のところ私が唱えているだけの説ですが、将来学者たちが深く研究してくれることを願っています。

(新刊JP編集部)

書籍情報

目次

  1. はじめに
  2. 魏志倭人伝
  3. 大和朝廷について
  4. 魏志倭人伝 全文
  5.  
    縄文時代について
  6. あとがき

プロフィール

藤田 洋一(ふじた・よういち)
藤田 洋一(ふじた・よういち)

藤田 洋一(ふじた・よういち)

1946年東京に生まれる。1969年早稲田大学政治経済学部卒業。1969年~2000年日本航空に勤務。2000年会社を中途退職し沖縄に移住。現在に至る。

魏志倭人伝と大和朝廷の成立

魏志倭人伝と大和朝廷の成立

著者:藤田 洋一
出版:幻冬舎
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