だれかに話したくなる本の話

新刊ラジオ第1326回 「坊主失格」

愛されたい「渇愛」の心と自分を良く見せたい「慢」の心に囚われていた人生。それを抜け出すきっかけになったのは、何気なく始めた「坐禅瞑想」だった……。“どんな人でも変われる”というメッセージを、生きることに苦しんでいた僧侶が自らの半生と経験を通して伝える一冊です。

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中2病だった僧侶

●著者について 小池龍之介さんは、1978年、山口県出身、東大教養学部卒業後、2000年以降は世田谷の月読寺(つくよみじ)で住職をされている方です。 現在も修行を続けながら、一般向けの座禅指導や講演、執筆活動などをされています。 また、お寺とカフェを合わせた「家出カフェ」の運営でも注目されました(2007年から冬眠中(休止中)。今年の春再開予定)

今回紹介する「坊主失格」は、小池さん自身の幼少期から現在に至るまでの経験や、「坐禅瞑想との出会いで変わった自分自身と人生観」などを通して、「どんな人だって変わることができる」というメッセージを伝える一冊です。

?幼少期が舞台の「渇愛・慢」 ?学生時代が舞台の「怒り・嫉妬」 ?大学生活や結婚していた頃の「見・無知」 ?修行に打ち込み見始めた頃を描く「自分コントロール」の4章で構成されています。

小池さんの半生は、とにかく「渇愛(かつあい)」と「慢(まん)」という欲望との闘いでした。 「渇愛」は、字の通り<愛情に飢えた状態>という意味で、「淋しい、愛されたい、かまってほしい」という心のこと。 「慢」は、根本煩悩の一つ「欲望」に根ざす煩悩で、<他人からの自己評価を気にする心>の事で、「回りの目ばかりを気にして、自意識過剰な欲望に一喜一憂してしまう状態」のことです。 その半生は、「もっと愛されたい、もっと自分の価値を認められたい」という欲望に駆られ続けた毎日だったのです。

子供の頃の「親への愛情中毒」「強い自己顕示欲と孤独への不安」に始まり、「キャラを演じること」からたどり着いた「太宰治モード」。 高校、大学へと進む中で覚えてしまった「自分と他人との差別化」「傷付けないと感じられない愛情」。 そして、破綻した結婚生活と「制御が利かなくなった自分」、と在りたい自分からどんどん離れていく人生を送っていたそうです。

太宰治モード、そして歪んだ愛情

小池さんが語る昔の<幼少期の自分>と<太宰治モード>、<大人になってから身につけてしまった歪んだ愛情>のエピソードをご紹介しましょう。

【幼少期】 かくも私は「人から見てもらいたい、独りぼっちにしないでほしい、認めてもらいたい」という感情がひどく強い子供でした。集めているシールを見せて「スゴいね」と言ってもらいたいとか、絶えず自分をアピールしようとする子供でした。 もちろん親は役割から「スゴいわねぇ」と言ってくれるのですが、敏感な子供にすれば、その言葉は心こもらぬ棒読みにしか聞こえません。「本当は全然スゴいなんて思ってない」と傷ついたりしていました。 どんな時でも親にかまってもらいたい。私はそれが極端に強かったようです。 隣の人が挨拶にやってきて話し込んだりすると、親に無視されたような気持ちになって、悲しくなり涙ぐむ。そこで、騒いでまで親の注意を引こうとするなんてしょっちゅう。とにかく、自分を一番に思ってもらいたい。100%自分の事だけを思ってもらいたい、そう思っていたのでした。

【太宰モード】 中学一年生の時でした。太宰治の人間失格を読んで、これだ!と思ってしまったのです。 自分の身の置き所が分からなくなった時、「世間に背を向け、自分は特別であり、世間に溶け込めない人間なのだ」という主人公の自己認識をそのまま自分に持ち込む……そうすれば、私が始めた「認められなくても平気」というポーズを取るのも楽々。 「そもそも自分はそういう人間なんですよ、だからあなたたちの承認なんて必要ない」というアイデンティティを、太宰治を知ることによって簡単に手に入れることができたのです。 この「私は駄目な、人間失格な存在です。生まれてきてすいません」という発想が、「自分は特別な人間である」という傲慢さと表裏一体となっていました。 私たちは知らず知らずのうちに、「自分が他とは異なった特別な人間でありたい」と思いがちです。しかし、私の様な劣等感まみれの人間にとっては、「自分が一番駄目だ」といじけることで、ある種のエリート性を手に入れてしまえるのでした。 この便利な「太宰治モード」に入れば、これ以上傷付かなくて済むと思ったのかもしれません

【大学生の頃】 相手が振り向いてくれた時点で、私は密かに「愛されてる」という快感により苦しさを誤魔化すことが出来たのです。 しかし私の屈折した淋しさは、平穏な関係の中では消せませんでした。慣れてくると、再びすぐに「足りない」という衝動が甦るのでした。 そして別れ話になった時、相手が泣いたり謝ったりして「別れたくない。悪いところかあるなら直すから」という反応に、さらに私は歪んだ学習をしたのです。「自分を好きになってもらえれば、相手を屈服させて強い影響力を及ぼすことができるらしい」と。 あたかも、かつて親や友達からもらえなかったことへの八つ当たりでもするかのごとく、私は交際相手に冷たい言葉をかけたりして不安に陥れていたものでした。 「恋は相手を不安にさせれば支配でき、支配できれば愛されている」と錯覚することで、ようやく淋しさがまぎれるのでした」

幼い頃から「渇愛」に突き動かされていた小池さんは、愛されたいあまりに暴走し、返って他人や家族、自身を傷付けていきました。そして悩み続け、なんとかしなければと考えていた頃、「坐禅瞑想」と運命の出会いをします。 そこから自分をコントロールする術を体得し、「自分の何が問題で、何と闘わなければならないのか」に気付いていったそうです。

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坊主失格

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坊主失格

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愛されたい「渇愛」の心と自分を良く見せたい「慢」の心に囚われていた人生。それを抜け出すきっかけになったのは、何気なく始めた「坐禅瞑想」だった……。“どんな人でも変われる”というメッセージを、生きることに苦しんでいた僧侶が自らの半生と経験を通して伝える一冊です。