だれかに話したくなる本の話

新刊ラジオ第1377回 「TOKYOオリンピック物語」

東京にオリンピックがやってくる。1964年のことでした。大会には優秀な人材が集まってきました。選手だけではなく、日本中からあらゆる才能が集まって最高のチームワークを発揮して仕事をしました。敗戦後の日本を立て直そうという思いと、オリンピックを成功させようという思い。そこには従来のやり方にとらわれることなく、目標を達成していった人たちがいました。

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戦後日本を再建した男達の共通点

1964年は何があった年かご存知ですか? 東京でオリンピックが開催された年です。

敗戦から立ち直ろうと必死だったときに、東京でのオリンピック開催。 高度成長は、そのときから本格化したと言われています。

今紹介する本は、東京オリンピックを裏で支えた人たちの物語です。

●著者プロフィール 野地秩嘉さんは、1957年東京生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務などを経て、ノンフィクション作家に。人物ルポタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野での幅広い執筆で知られています。

今回の本は、東京オリンピックを題材に書かれていますが、スポーツヒーローに焦点を当てたものではありません。 これまで取りあげられることのなかった大会を裏で支えた人たちが登場します。オリンピックの組織や運営システムを作り上げ、日本社会の改革を進めた人たちの物語です。

彼らの活躍は、戦後の日本を大きく変えてきました。 そこで活躍した人たちは、従来の仕事のやり方にとらわれることなく、自己改革を繰り返しながら目標を達成してきました。 腹を据え、バカになって突っ込んでいって、活路を開いた人たちです。 敗戦後の日本をがむしゃらになって立て直してきた人たちです。

今の日本も、裸一貫、がむしゃらになって進んでいかなければならない時です。 この本を読むと、「ヨッシャ!!やったるで!!」なんていう気持ちになるのではないでしょうか。

活力のある人の共有点

活気のある人たちには共通点があるそうです。 それは、“挑戦が好きなこと”。 他人にうながされないで、自ら変化を求め、新しい目標に向かって、がむしゃらに突き進む、いわば物好きな人たちです。

活力のある人は好奇心があります。 新しいものが好きで、新しいところへ出かけていきます。 景気がよかった昭和の日本社会では、つねに新しい事業、新しい飲食店、新しい何かが生まれていて、そこには元気な人が集まってきました。

社会が変化するには、元気で物好きな人と、新しい何かが必要なのです。 1964年に開催された東京オリンピックは、日本の社会システムを変化させ、経済成長を加速させたイベントでした。 そのイベントの裏方で支えた人たちがいたからこそ、オリンピックは成功し、日本経済は発展していったのです。

本の中で登場する人はこんな人たち。

●亀倉雄策(かめくら・ゆうさく)さん。 東京オリンピックの公式ポスターを手がけたグラフィックデザイナーです。亀倉さんは、現役の陸上選手を起用して陸上のポスターを手がけました。 CGなんかない時代です。しかし見事な写真が、本の中に載っています。

●竹下亨(たけした・とおる)さんと、そのチーム。 オリンピック東京大会で、史上初のリアルタイムシステムに貢献した、日本IBMエンジニアです。彼らが開発したシステムは、その後のオリンピックでも引き継がれていきます。

活力のある人の共有点(2)

●村上信夫(むらかみ・のぶお)さん。 帝国ホテルの料理長です。当時、選手村の料理長を務め、冷凍食材の導入、エスニック料理のレシピ開発、大量調理システムの普及に力を入れました。その後の、ローマオリンピックにも村上さんは派遣されました。

●飯田亮(いいだ・まこと)さん。 セコム創業者。日本初の民間警備会社を創業した方です。東京大会では、日本で初めて設立された警備会社が選手村の警護を請け負います。本来、競技場や選手村自体の警備は自衛隊が組織した警護隊が担当することになっていたのですが、自衛隊だけでは人数が足りなくなって、急きょ、仕事を委託することになったのです。

●市川崑(いちかわ・こん)さん。 映画監督です。黒沢明が断った東京オリンピックの記録映画の総監督を務めることとなりました。

●谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さん。 詩人です。市川崑さんに誘われて記録映画の脚本を書きました。

そうそうたるメンバーがゼロからのスタートで集まってきました。 他にも、本書ではイベントを裏方で支えた人たちが数多く登場します。 次のページでは、日本IBMエンジニアの 竹下亨(たけした・とおる)さんの話を少し紹介します。

東京オリンピックで導入された新システム

第1回アテネオリンピックに出場した選手の数は14ヶ国で280名。 それが第18回東京大会では93の国と地域、5152名の選手が出場する規模に膨れ上がりました。

競技も増えて、20競技、163種目となりました。 種目や選手が多くなるにつれて、競技の結果を記録して、着順をつけるのも時間と人手がいるようになります。

そのため、東京オリンピックでは従来と全く違う最新式の速報システムが導入されました。それがコンピューターのリアルタイムシステムによる競技結果の速報でした。 このオリンピックのシステムを担当したのが、当時32歳だった日本IBMのシステムエンジニア、竹下亨(たけした・とおる)さんだったのです。

責任者が竹下さんで、3名の部下とともに細々としたスタートした仕事でした。 当時のことを竹下さんは、こう言っています。

「リアルタイムで競技の結果を集計したのは、歴史上東京オリンピックが初めてのことでした。 ローマ大会までは、記録をタイプしたものを本部に電話で送る、あるいは運ぶことが記録集計でした。 私は最初のうち、オリンピック記録にわざわざリアルタイムシステムを組み込むことには懐疑的でした。コンピューターを入れることで、どれほどの意味があるのかがちっともわからなかった。 というのもコンピューターは計算する機械だからです。オリンピックで計算が必要な競技といえば体操、馬術、射撃くらいのものだし、しかも大した計算ではない。陸上や水泳は見ていれば誰が1着かすぐわかりますし・・・。 しかし、やっているうちにエキサイティングな仕事だとわかってきました。 コンピューターと伝送システムを組み合わせれば、競技の結果がたちどころにわかります。そして、どこの競技場にいても他の会場の結果がわかる。 それにコンピューターならば世界新やオリンピック新記録といった過去の成績を無限に保持しておくことができるから、すぐに引き出せる。 私たち開発者がこだわったのは汎用の商用機でシステムを開発することでした」 (P82,83より抜粋)

実際に、このシステムはオリンピックが終わったあと、さまざまな分野にシステムを売り込むことができました。 最初、竹下さんを含め4人でやっていた仕事が、いつのまにか作業量が増えていき、ピーク時には263名がかかわることになったそうです。 まさかこのような大規模プロジェクトになるとは誰も想像しませんでした。

このリアルシステムの成功は、オリンピックが終わったあとも、IBMにとっても大きなビジネスチャンスになりました。

日本人が初めて世界を意識し、世界と闘う場となった東京オリンピック。著者が15年に渡って取材し続けてきた記録です。

いま日本が弱くなっているときだからこそ、読んで欲しい力強い一冊です。

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