―今日は宜しくお願いします。6月16日に出版される『表現者』では、テーマとして環境問題を取り扱っていますが、目玉である武田邦彦先生と池田清彦先生の対談はとても読みごたえがありました。
富岡編集長「『表現者』は毎回テーマにそった特集を載せておりまして、毎回、編集委員が集まってそれを決めているんですね。それで、今回は「環境運動は正しいのか」というテーマでやっています。
『表現者』の場合、連載でそれぞれ自分のテーマを書いていらっしゃる方もおりますし、全体のテーマに合わせて書いて頂いたりですとか、対談や座談会なんかも企画しています。今回は通常言われるような「環境問題」の裏側といいましょうか、そうしたものを見出したいと思いまして、武田先生・池田先生をゲストに招きました」
『表現者』の場合、連載でそれぞれ自分のテーマを書いていらっしゃる方もおりますし、全体のテーマに合わせて書いて頂いたりですとか、対談や座談会なんかも企画しています。今回は通常言われるような「環境問題」の裏側といいましょうか、そうしたものを見出したいと思いまして、武田先生・池田先生をゲストに招きました」
―環境運動といいますと、昨年は洞爺湖サミットがありましたし、先進国の間ではエコロジーが合言葉のようになってきているようにも思います。
富岡編集長「そうなんですよね。ただ、ここ1年や2年じゃなくても、10年や20年スパンのなかで、環境問題は議論されてきました。日本も京都議定書などによるCO2の削減ですとか、いろいろと活動していますし、アメリカではオバマが大統領になり、グリーンニューディール政策を打ち出しています。世界をあげて先進国が環境問題に取り組んでいます。
そこで私たちは、今のアメリカ発の世界的な経済危機と環境問題が結びついているという認識を持っています。したがって、環境問題を単なる環境の悪化として捉えるのではなく、今の経済や資源、国家のあり方などと全て連動しているので、そういった意味から取り上げたら面白いのでは、というところはありました。
政治、文化、経済、社会とそれぞれ個別の問題もありますが、『表現者』が一番大事にしているのは総合的な視点なんです。あるスペシャリストの見方だけではなくて、1つに問題をいろいろな視点から多角的に見てみる。それが非常に大事なことだと思っています。幸い、『表現者』には全体を分析できるような力量のある執筆者の方が揃っておりますし、今、本誌の顧問をしていらっしゃる西部邁先生がおっしゃっていますが、やはりスペシャリストが陥っているある一定の見方から自由になって、全体を総合的に見る必要があります。
そういう意味でも、今回の特集で座談会をして頂きました武田先生も池田先生も非常にユニークな論を展開していて(笑)、それでいて尚且つ専門家としてご活躍されている。そしてちゃんと問題を全体的な視点で捉えていらっしゃいますよね」
そこで私たちは、今のアメリカ発の世界的な経済危機と環境問題が結びついているという認識を持っています。したがって、環境問題を単なる環境の悪化として捉えるのではなく、今の経済や資源、国家のあり方などと全て連動しているので、そういった意味から取り上げたら面白いのでは、というところはありました。
政治、文化、経済、社会とそれぞれ個別の問題もありますが、『表現者』が一番大事にしているのは総合的な視点なんです。あるスペシャリストの見方だけではなくて、1つに問題をいろいろな視点から多角的に見てみる。それが非常に大事なことだと思っています。幸い、『表現者』には全体を分析できるような力量のある執筆者の方が揃っておりますし、今、本誌の顧問をしていらっしゃる西部邁先生がおっしゃっていますが、やはりスペシャリストが陥っているある一定の見方から自由になって、全体を総合的に見る必要があります。
そういう意味でも、今回の特集で座談会をして頂きました武田先生も池田先生も非常にユニークな論を展開していて(笑)、それでいて尚且つ専門家としてご活躍されている。そしてちゃんと問題を全体的な視点で捉えていらっしゃいますよね」
―様々な分野がぶつかり合う必要がある、ということはとてもよく分かりますね。でも見渡してみるとなかなかそれができていない。これは言い過ぎかも知れませんが、学術機関なんかはやはりタコ壷に入ってしまいがちな気がします。だから多角的に、というのは実は珍しいのかも知れません。
富岡編集長「そうですね。それから、『表現者』の編集の根幹は、歴史や伝統の中に、今あることの問題をどう解決するか、歴史や伝統の中に知恵を発見しようという考え方なんです。つまり、大きな意味での保守ということになりますが、保守というと、今ではそうではないですけど、わりとネガティブな意味が込められていたと思います。でも、保守というのは、歴史の中に問い訪ねることで新しい知恵を発見していこうという姿勢のことをいうわけで、そういった知の運動というか、思想の構え方があると思います」
―今回のテーマは「環境運動は正しいのか」というテーマですが、富岡編集長自身はこの問題を見て、どう感じていらっしゃいますか?
富岡編集長「直感的には、これは日本だけではないと思うんですが、ある出来事やあるテーマの問題が起こると、なんとなく同じ論調が流れて、皆が同じ方向になびいてしまうという傾向はあると思うんですね。これは大衆民主主義社会の特徴だと思います。
それから、今のメディアも状況もそうで、論調が同じ方向に流れていく。そういうときに「本当にそうなんだろうか」と疑問に思う。それを歴史的な見地も含めて捉えなおしていく、と。批評ですね。そういう批評の視点は雑誌にとって大事だと思います。個人的な見解ですが、いろいろ出版されている雑誌もそういうことをやってきたと思うんですが、ここ数年は批評の部分が弱くなってきている気がします」
それから、今のメディアも状況もそうで、論調が同じ方向に流れていく。そういうときに「本当にそうなんだろうか」と疑問に思う。それを歴史的な見地も含めて捉えなおしていく、と。批評ですね。そういう批評の視点は雑誌にとって大事だと思います。個人的な見解ですが、いろいろ出版されている雑誌もそういうことをやってきたと思うんですが、ここ数年は批評の部分が弱くなってきている気がします」
―マスメディアも政治も、極めてポピュリズム的な色を持ってきているというのは同感です。現に小泉純一郎の政治はポピュリズム政治だったといわれています。
富岡編集長「そうですね。ただ、大衆民主主義やポピュリズム、世論迎合主義といったものは今にはじまったことではなくて、20世紀のはじめくらいからそれに対しての批判はあります。西部先生がよく引用されるオルテガの『大衆の反逆』では、大衆社会がすっぽりと覆いつくしていくということを指摘しています。オルテガは1920年代にそういったことを言ったわけで、その後、何が出てきたというとナチズムやファシズムですよね。ナチズムやファシズムは突然独裁者が降ってきたわけではなく、大衆に選ばれた政党です。つまり、大衆民主主義がナチズムやファシズムを選んだわけです。日本では、平成から入ってから、政治の次元でそういった流れが生まれています。それが小泉純一郎のキャラクターに代表されるようなものだったと思いますね。
京都大学の佐藤先生もおっしゃられていましたが、「世論」の「世」という字は、昔は神輿の「輿」という字だったんですね。それを「よろん」と言い、「世論」は「せろん」と言っていたんです。つまり「よろん」と「せろん」2つの言い方に分かれていて、「輿論に組みして世論に流されるな」っていうのが本来の政治家のあり方であったと思うんですね。
ところが戦後、国語の授業から「輿」の字がなくなってしまった。だから、「世論」が「よろん」になり、戦後の日本社会が発達していった、と。そういう意味で雑誌としての『表現者』は「輿論」の方の支持を得たいと思っていますね」
京都大学の佐藤先生もおっしゃられていましたが、「世論」の「世」という字は、昔は神輿の「輿」という字だったんですね。それを「よろん」と言い、「世論」は「せろん」と言っていたんです。つまり「よろん」と「せろん」2つの言い方に分かれていて、「輿論に組みして世論に流されるな」っていうのが本来の政治家のあり方であったと思うんですね。
ところが戦後、国語の授業から「輿」の字がなくなってしまった。だから、「世論」が「よろん」になり、戦後の日本社会が発達していった、と。そういう意味で雑誌としての『表現者』は「輿論」の方の支持を得たいと思っていますね」
―環境運動は1つの市民運動の形だと思うんですね。で、もともと市民運動は批判的な立場から物を言うといいますか、お上に訴えかけて、社会を是正していくと言う性格があると思うんです。これは私の感想なのですが、環境運動のある1つの側面には、盲目的に「エコロジー」とばかり言って、何が本当の問題なのかを見失っているような気がしてなりません。
富岡編集長「20世紀に入って大きく変わったのは、それまでは生命と環境でいうと、環境が生命を律していたという部分が強かったと思います。環境が激変すると、生命にもダメージが及ぶという関係ですよね。でもそれが大きく変わり、今度は人間という生命が環境を変えた。これは今までになかった変化です。その中で人口爆発と文明社会が出てきたわけで、今の環境問題というのは非常に深い、歴史的な背景を持っていると思いますね。
もう1つはアメリカのグリーンニューディール政策にも象徴的に見られるように、環境問題やエコロジーを経済とどう結びつけるか、というところにいくつも落とし穴があります。上手く結びついていければいいのですが、アメリカなんかのやり方は、ITバブルがはじけて、じゃあ今度は環境運動、エコロジー、という流れですよね。アメリカ主導のマネー運動と結びついたときの問題性というのもあると思います。それこそ、空気がバブル商品になっていく可能性もあるわけですから、そういうことを踏まえて考えないといけないと思います」
もう1つはアメリカのグリーンニューディール政策にも象徴的に見られるように、環境問題やエコロジーを経済とどう結びつけるか、というところにいくつも落とし穴があります。上手く結びついていければいいのですが、アメリカなんかのやり方は、ITバブルがはじけて、じゃあ今度は環境運動、エコロジー、という流れですよね。アメリカ主導のマネー運動と結びついたときの問題性というのもあると思います。それこそ、空気がバブル商品になっていく可能性もあるわけですから、そういうことを踏まえて考えないといけないと思います」
―その話はとても面白いと思います。「近代」というプロジェクトが、人間のそのものの価値といいますか生き方が大きく転換してしまった。環境が生命を包むというのは東洋的な思想ですが、そういう思想が近代化によって、失われてしまった。
富岡編集長「『表現者』でずっと取り上げてきたことは、近代文明はこれで良いのかということです。今回の号で3回目になるんですが、小説家で評論家でもある笠井潔さんをお呼びして、西部先生と私とで座談会をやっています。今回のテーマは「何処にもない国」ということで話しているのですが、そこでは、思想的、抽象的なテーマ…「近代とは何か」「国家とは何か」「共同体とは何か」というテーマのことを、思想や文学や哲学を横断しながら話しています。こういう横断的なテーマと近々のテーマを上手く結合させるのが大事だと思いますね。
ただ、そういったことを読者に理解してもらうにはちょっと時間がかかるかなとは思っています(笑)。だから、そういう哲学や思想をいかに分かりやすく、いい意味でいかに軽妙に発信できるかというのはありますよね。最終的には紙媒体になるんですけど、携帯やウェブ上でも発信して、若い人たちにもなんとか食いついてもらいたいという工夫をジョルダンブックスさんにもやってもらっています」
ただ、そういったことを読者に理解してもらうにはちょっと時間がかかるかなとは思っています(笑)。だから、そういう哲学や思想をいかに分かりやすく、いい意味でいかに軽妙に発信できるかというのはありますよね。最終的には紙媒体になるんですけど、携帯やウェブ上でも発信して、若い人たちにもなんとか食いついてもらいたいという工夫をジョルダンブックスさんにもやってもらっています」
―では最後に、若い人たちがそういう視点を持つにはどうすればいいか、そしてどう生かせばいいかということを教えてくださいますか?
富岡編集長「私自身も大学で講義をしていますが、今の大学生が本を読まなくなっていますし、それから論壇誌も読まなくなっています。それに、どんどん休刊していますよね。『論座』も『諸君!』もなくなりました。そういう意味では、今の若い人たちに、そういったこと発信するのはかなりの工夫が必要だと思うんですね。
『表現者』の立場としては、言葉を届けたいんです。映像も必要ですけど、いい言葉を届けたいと思っています。あとはものを考えるための材料になるような言葉ですね。人間は言葉を与えられた動物で、言葉によって文化をつくってきたわけですから、今を見ていると、「言葉の喪失」のような状況が起きている気がするんですね。
ジョルダンでは、社長が1つの考えとして「ケータイで哲学を」という考えを打ち出していまして、ケータイ小説を配信して多くの読者を得ているんですが、同時に哲学や思想をケータイでも接してもらいたいというところもあるんです。だから、いろいろなことがこれからその方向に向かうんじゃないかな、と思いますね。おそらくそういう意味では先駆的な発想だと思います」
『表現者』の立場としては、言葉を届けたいんです。映像も必要ですけど、いい言葉を届けたいと思っています。あとはものを考えるための材料になるような言葉ですね。人間は言葉を与えられた動物で、言葉によって文化をつくってきたわけですから、今を見ていると、「言葉の喪失」のような状況が起きている気がするんですね。
ジョルダンでは、社長が1つの考えとして「ケータイで哲学を」という考えを打ち出していまして、ケータイ小説を配信して多くの読者を得ているんですが、同時に哲学や思想をケータイでも接してもらいたいというところもあるんです。だから、いろいろなことがこれからその方向に向かうんじゃないかな、と思いますね。おそらくそういう意味では先駆的な発想だと思います」
―ありがとうございました!
