新刊JP
 1960年静岡生まれ。東京大学法学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士課程を経て、現在、明治大学文学部教授。専攻は教育学、身体論、コミュニケーション論。
主な受賞作品に1998年宮沢賢治賞奨励賞を受賞した「宮沢賢治という身体」(世織書房)、新潮学芸賞を受賞した「身体感覚を取り戻す」(NHKブックス)、シリーズ累計200万部を記録し、毎日出版文化賞も受賞した「声に出して読みたい日本語」(草思社)などがある。
その他の著書は、「三色ボールペンで読む日本語」(角川書店)、「理想の国語教科書」(文藝春秋)、「齋藤孝のイッキに読める名作選」シリーズ(講談社)、最新刊に「1分で大切なことを伝える技術」(PHP新書)、「新訳 学問のすすめ」(ちくま新書)、「座る力」(文春新書)、「仕事力 2週間で“できる人”になる」(筑摩書房)がある。
毎週土曜夜10時から放送の
『情報7daysニュースキャスター』(TBS)にレギュラーコメンテーターとして生出演中。 http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/

――『名作にひそむ涙が流れる一行』を読んで読書の素晴らしさを再認識しました。
一つの小説、一つの詩を読むことで人生と真剣に向き合うことができるのです。それがよくわかりました。
「はじめに」でこの本はご自身の「生き方論」だと書いていらっしゃいますが、いま「生きるうえで大切なこと」とはどんなことだとお考えですか?

齋藤孝 この本は個々の作品の解説をしたものでもないし、文学的な評価を述べたものでもありません。私がかつて読んだ本、最近読んだ本のなかで心に響いたセリフやひっかかった言葉、文章を選び出し、それを題材に私が大切にしてきた価値観や感覚といったものを思いつくままにつづったものです。
たとえば夏目漱石の『それから』は強烈な恋愛小説です。「大文豪が明治時代に書いた古典でしょ」と敬遠する人が多いかもしれませんが、少しヘビーな男と女のドラマとしていまの若い人が読んでも十分楽しめます。 処世訓的な読み方をすすめるわけではありませんが、漱石が、人は興奮状態でずっと生きられるわけではなく、興奮が冷めやった後に長く地味な生活が待っているということを示唆していると読むことも可能です。
 宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』という作品も古典になってしまいますが、自己犠牲の尊さの物語として読むのではなく、自分を特別な存在として考えないための本として読むといいように思います。
この点は相手が自分より優れていると認めることができれば、自分のなかの無駄な虚栄心とか嫉妬心、競争心がそれこそホコリのようにハラハラと落ちていきます。
 私はじつは20代のころ「特別な存在でありたい」という思いが強すぎて、空回りしてばかりいました。「どうせ誰も俺のやってることの価値なんかわかりゃしない」と思っているときにはうまくいかなくて、チャンスもめぐってこない。
自分がではなく、チームが勝てばいいと考え方を変え、やり方も変えてみると、まず自分の気持ちが楽になり、不思議なことにやりたいと思っていた仕事が舞い込んでくるようになったのです。

――「はじめに」では、「読むことは、万人の解釈に開かれている」ともおっしゃっていますが、この本を読んだ読者にどんな変化が起こることを期待していらっしゃいますか?

齋藤孝 本の読み方というのは百人百様であっていいし、解釈は自由です。いまあげた二つの作品の例もあくまで私流の解釈であり、私の読み方です。 この本で取り上げた小説や詩は読んで泣いてしまっても不思議ではない作品ばかりですから、これはと思った「一行」の作品をぜひ読んでみてください。そして自分流の解釈をしてみてください。
 人が涙を流すということは「心がほぐれる」ということです。「私は私」というかたくなだった自我の壁が崩れて、自己と他者の通路が開かれるのです。

――あくまで一般論ですが、現代人は本を読まなくなったといわれており、実際に出版社の売り上げは減少を続けています。そうした状況のなかで読書の意味、とりわけ文学作品を読むことの意味をどのように考えていらっしゃいますか?

齋藤孝 先ほどいったように、ある小説を読んで涙が流れたとしたら、あるいはたとえ実際に涙が出なくても精神的なうるおいを感じ取れたら、いわば「心のアンチエイジング」ができたことになります。あえてそういう言い方をすればそれも「読書の効用」の一つといえるでしょう。
 残念ながら、本を読まない人に読書の楽しさはわかりません。読書の大切さもわからないでしょう。「どうして本なんか読むの?」「本なんか読まなくてもちっとも困らない」という友だちや知り合いには、いわせておきましょう。そんなことは気にせずにどんどん本を読めばいいのです。
 でもそれでは身も蓋もない話になってしまうので、「読書の意義」みたいなものをアトランダムにいくつかあげてみます。
 まず、「アナザーワールド体験」ができることです。自分が体験したり想像したりすることとは別の世界をのぞくことができます。
この『涙が流れる一行』でも取り上げましたが、村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、著者の言葉によって紡ぎだされた不思議な世界が読者に提示されます。読者がその世界を堪能していくうちに、著者のリアルなメッセージが読者に伝わるという仕組みになっています。
小説では虚構の世界が描かれるわけですが、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいると、主人公のラスコーリニコフの落ち込んでいく状況に自分自身も巻き込まれていき、あたかも小説世界に入り込んでしまったような気になります。逆にいうと、小説の登場人物が自分の心に棲みついてしまったような感覚になります。これは自分の心が一回り大きくなったということなのです。
文学作品を読むと、「もう一つ別の世界」を体験できるだけでなく、「人間の器」を大きくするといってもいいのではないでしょうか。 小説に限りませんが、優れた日本語による散文を読むことによって鍛えられ、向上するものがあります。それは、日本語力、教養、倫理観の三つです。
もっともこれは、小学生や中学生の国語教育を根本的に変える必要があると問題提起したときに考えたことですが、大人だからといって必ずしも手遅れということではありません。優れた日本語、レベルの高い日本語に接する機会が多ければ多いほど、人間としての総合的な力がアップしていくはずです。

――読書が人間形成に欠かせないというお話ですが、「こんな人になりたい」と思うような理想の人物がいましたら教えてください。

齋藤孝 現代はロールモデルが選びにくい時代です。身近な人で「あの人をお手本にしよう」というのはなかなかむずかしい。ここでも読書が力を発揮します。偉人・哲人・文豪といわれる人たちが書いたものを読んで、気に入った人をロールモデルにしていくということがあっていいと思います。
 私にとって福沢諭吉はその一人ですが、自分と存在のありようが似ているとか、あこがれることができる存在か、ということが重要です。  要するに好きになれるかどうかですが、じつをいうとドストエフスキーやニーチェ、ゲーテなどを読んでいるとおかしくて笑いがとまらなくなるときがあります。
 「こいつもこんなことを考えていたんだ」「こんなことまでいっちゃっていいの」みたいな感じに自分の考えと照らし合わせながら読んでいて、自分の考えにピタッと重なる部分があるとおかしさがこみあげてくるのです。
 好きになった人、あこがれる人が自分とはかけはなれた天才であっても、自分が目指す分野の人でなくてもそんなことは一向にかまいません。どんな人からでも貪欲に学ぶという姿勢が大事です。

――「若い人にとって現代は生きにくい時代だ」といわれますが、そんなふう感じている若い人に向けて何かメッセージがあればお願いします。

  齋藤孝 現在は明治の時代と似ているところがあります。漱石の『それから』は日露戦争後のバブルがはじけて不況に見舞われている時期に書かれたもので、小説の時代設定もそのままで、登場人物も経済的な影響をさまざまなかたちで受けています。
 いまと同じようにグローバリゼーションの波に洗われているのです。その結果どうなったかというと、人々にとって自分が直面しなければならない世界が以前と比べて格段に広がったのです。
 もちろん明治と現代のグローバリゼーションはまったく同じではありませんが、世界とより広く向き合わざるを得なくなったという点は同じです。
 こうした大きな変化に直面しているとき、若い人たちが真っ先にその影響を強く受けるということはあると思います。
 『涙が流れる一行』で取り上げた、吉本(よしもと)ばななさんの『満月――キッチン2』という小説に、「世界は別に私のためにあるわけじゃない」というフレーズがあります。人は、とくに若い人たちは世界は自分のためにある、もしくは自分を中心に回っていると錯覚しがちです。  そうなるといまの自分に満足できなくて、本来自分はもっといいはずだと思うようになります。でも、「世界は私のためにあるんじゃない」と思える人は現実を直視することができます。そのうえで、世界の理不尽さと戦うための具体的な技を編み出します。
 私にとってその技の一つが「上機嫌」です。人間なら誰しも機嫌がいいときもあれば悪いときもあります。けれども、「仕事のときは絶対上機嫌でいる」ことを技化して体におぼえこませてしまうと、身動き取れない状況になったとき、そこから自分を救い出してくれるのです。
 この『涙が流れる一行』には、こうした生き方のヒントみたいなものがけっこうたくさん書かれていますので、ぜひたくさんの若い人たちに読んでもらいたいですね。