だれかに話したくなる本の話

大人にはわからない 子どもだけが感じる恐怖とは

泣かせる小説ならこの作家」「ミステリーならこの人」などなど、小説にはタイプによって代表的な作家がいるものだが、お題が「ヘンな小説」であれば、真っ先に名前が挙がるのが青木淳悟だろう。
 
 青木さんの最新作『学校の近くの家』(新潮社刊)では、杉田一善(小学5年生)の目から見た学校、友達、親、先生、地域が書かれるが、そこには冒険も事件もファンタジーもない。

ただ、もちろん「単なる日常」でもない。そもそも小学生の目を通せば「単なる日常」などというものは存在しないのだ。

 出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』。第78回は青木淳悟さんの登場だ。
(取材・構成/山田洋介、写真/金井元貴)

■「“子どもならではの恐怖心”の部分を広げていけたらなと思っていた」
――ご自身よりかなり若い「小学生」の視点で小説を書くにあたって、心がけたことはありますか?


青木:本当は自分自身の小学生時代に重ね合わせるように書こうと思っていたのですが、いつの間にかずれていってしまって、最後には年齢までずれて主人公が昭和56年生まれということになってしまいました。
なぜこんなことになったのかというと、作中で「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」という、宮崎勤の事件を取り上げたのですが、話の都合上、その事件は一善が小学校低学年の時期に起こったということにしたんです。それで年齢が僕自身と少しずれてしまった。

―― はっきりとした影響というよりは、一善の生活の端々にそれとなく事件の影が落ちているという雰囲気が印象的でした。

青木:隣町で被害者が出たりしていたので、それなりに衝撃的で、今でも覚えています。自分のふるさとをじっくり書きたかったので、当時のことで覚えていることは総動員しようと思っていたのですが、いざ思い出そうとすると全然思い出せなくて小説にする材料が足りていない状態でした。

だから、覚えているささいなことを膨らませていく形で書いていったのですが、書いているうちに思い出してくることが結構あって、それは楽しい経験でしたね。

―― 一善以外の登場人物も普通なようでいてどこか独特ですよね。個人的には5年生の担任教師の「馬淵先生」の訓辞めいた挨拶が好きです。おそらくどんな先生も新学期は似たような挨拶をするはずなのですが、それが文字になると不思議と笑えます。

青木:ありがとうございます。先生のセリフは自分でも書いていて楽しかったです。普通なのにどこかヘンだぞというセリフが多かったと思います。また物語がない分、作中人物の言動に負荷をかける感じで、不安定さというか不穏さを出したかったですね。

―― そして一善の両親は、人間くさいお父さんと、風変わりで少々エキセントリックにも見えるお母さんが対照的で目を引きました。

青木:母親は家の象徴というか、家庭を代表する人物として書いています。
学校と積極的にかかわろうとしたり、逆に距離をとろうとしたりする、ある意味アクの強いキャラクターですね。

――「物語がない」ということをおっしゃっていましたが、確かに物語の時間が小学5年生の新学期からあまり進みません。

青木:そうですね、基本的には小学5年生の一善が「2年生の時はこうだった」「3年生の時は……」というように過去をくよくよ思い出すところが多いです。

成人してから小学生時代を思い返すというのはわかりますが、小学生なのに過去を振り返ってばかりの男の子が主人公の作品というのはあまりないだろうし、そこが微妙でおもしろいんじゃないかと思いました。

――その主人公の性質をよくあらわしているのが、第6話目の「11年間の思い出」というタイトルですね。

青木: 12年間だと「小学校生活のまとめ」といった感じで区切りがいいですけど、そこを「11年」とすることで、まとまりにくい感じを出せたかなと思います。一善が書いた「5年生になって感じたこと」という作文にまつわるお話なのですが、自分でも結構気に入っています。

―― 一善が先生の挨拶から膨らませた妄想の描写が続いて、普通ならそこから本筋に戻るところを戻らないというのも青木さんらしいと思いました。そもそも「本筋がない」といった方がいいのかもしれませんが。

青木:ひょっとしたら学校と一善の母親は対立しているのかな?と匂わせて物語が発展する要素を出しておきつつ、それを回収していなかったりもします(笑)。

――お母さんが急に怒り出したり、不穏なところがありますよね。

青木:そうですね。きちんと書けたかどうかはわからないのですが、そういう母親の不可解な様子だったり、いつのまにか家の隣に学童保育所ができていたりといったエピソードを書くうえで根底にあったのは、子どもならではの恐怖心だったんだと思います。

今思い出そうとしてもはっきりとは思い出せないのですが、当時「怖れの感情」を日常的に抱いていたことは覚えています。それは僕の性格的なものもあったと思いますが、それを差し引いても大人より子どもの方が恐れを抱くことは多いはずです。そういう「子どもならではの恐怖心」の部分を広げていけたらなと思っていました。

第三回「大江文体」を目指して書かれた小説を誤って消去…につづく