- 半七捕物帳<1>年代版<1>
- 半七捕物帳<2>年代版<2>
- 半七捕物帳<3>年代版<3>
- 半七捕物帳<4>年代版<4>
- NOW Printing年代版<5>
- NOW Printing年代版<6>
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- NOW Printing年代版<8>
「年代版」を詮議する
私が『半七捕物帳』の虜になったのは、六十五歳になって二度目の定年を迎え、いよいよリタイアしようとするころでした。これからの有り余る時間をどう過ごすかを真剣に考え、たどり着いたのが『半七捕物帳』だったのです。江戸の切絵図をそばに置いて再読すると、興味は一段と増し、半七の歩いたところが手に取るように解りました。仕事の関係で、東京の地理に詳しいことも幸いでした。「余暇を『半七捕物帳』大好き人間で過ごそう」と決心し、先ずその中身を覚えようと努めました。ただ何回も読んでいるだけでは効率が悪いので、登場する人物や地名、芝居の演目、史実などを拾い出し、内容を調べてメモ書きし、事件ごとの便覧のようなものを作りました
「このメモ書きを積み重ねれば、『半七捕物帳事典』ができそうだ」、病膏肓に入った私は、それから十年余をかけて事典を創りあげました。途中で嫌気がさし、投げ出そうとしたことも度々ありました。「岡本綺堂先生が手本とした『シャーロック・ホームズ物語』に立派な事典が何種かありながら、『半七捕物帳』に事典らしきものは何もない」、そんな意地が挫折を救ってくれ、完成への励みになりました。苦しみも、いまでは楽しい思い出です。
さて、本シリーズは「年代版」ということで、半七親分の事件を年代順に編んだことが特徴となっています。こうして並べてみると、『半七捕物帳』は年代順を無視して順不同に執筆されたにもかかわらず、事件年がきちんと整っていることが解りますし、半七親分の十九歳から四十五歳に至る二十七年間の活躍を、順を追って読むことができます。
しかし、この事件年ははじめからこのような順になっていた訳ではありません。綺堂先生は執筆の途上、二回にわたって事件年の大きな編成替えを行いました。
先ず表(二八八ページ)によって初出時の事件年を見てみましょう。ここには「聞書帳」など半七以外の事件が混在し、それらの大部分は半七が初陣の功名をあらわす以前、すなわち「石灯籠」以前の事件となっています。綺堂先生は先ず、新作社版全集刊行時(大正一二~一四年)にこれらを半七親分の事件に書き替えることを考えました。しかし、その中には背景からどうしても書き替えのできないものがありました。舞台が江戸から遠く離れていたり、背景に史実を組み入れたために事件年を動かせず、半七を登場させることができなかったもので、それらは「小女郎狐」「旅絵師」「槍突き」「熊の死骸」の四事件です。そのほかは事件年を書き替えて半七の事件としました。これが表に見る新作社版全集収録時の事件年です。聞書帳九編のうち「松茸」、「甘酒売」(「あま酒売」と改題)、「三河万歳」、「張子の虎」の四編を半七の事件に替えると同時に事件年を繰り下げ、「人形の怪」は事件年をそのままにして半七ものに直し、題を変えました。また、「津の国屋」、「踊りの浚い」(「少年少女の死」の前半)、「化銀杏」、「蛙の水出し」(「少年少女の死」の後半)などを半七ものに直して事件年も変えました。更に半七ものの「お化師匠」、「鷹匠」(「鷹のゆくえ」と改題)の事件年を変えました。
このとき綺堂先生は「熊の死骸」をどうしようかと悩んだようです。これは先生のお気に入りの作品であるらしく、どうしてもこれを半七ものに書き替えたい。しかし、背景に青山火事という史実があるので事件年を動かすことができない。青山火事の弘化二年(一八四五)は半七がまだ十歳のときで、半七を活躍させるわけにはいきません。そこで考えたのが半七の生年を繰り上げるということです。新作社版全集が刊行されたのは大正一二年から同一四年にかけてですが、綺堂先生はその途上でこの奥の手を案出したようです。しかし、この全集の中で途中から半七の生年を変更するわけにはいきません。すでに刊行ずみの第一輯には「石灯籠」が収録されており、半七の生年を暗示してあるからです。
二回目の改編は昭和四年に刊行された春陽堂版全集(上下の二冊版)のときです。ここで半七の生年を天保七年(一八三六)から文政六年(一八二三)へ十三年繰り上げ、「熊の死骸」を吉五郎の事件から半七の事件に直しました。同時に半七の活躍期間が広まったので、「石灯籠」以下十二の事件を繰り上げ、「湯屋の二階」を一年繰り下げました。「湯屋の二階」は同じ冬の事件である「雪達磨」と比較して、雪の降り具合を考慮したものと考えられます。
半七の生年を繰り上げたことは、「わたし」が半七老人宅を訪ねて昔話を聴く時期とも関連しています。これを新作社版全集でみると、第一輯の「お文の魂」では、「私が半七に初めて逢ったのは、それから廿年の後で、恰も日露戦争が終りを告げた頃であった」としているのを、第三輯の「半七先生」では、「わたしが半七老人を識ったのは、明治廿七八年の日清戦争以後で……」という記述に替わっていて、同じ全集の中でその時期が違っています(「半七先生」のこの記述は、春陽堂版全集時に削除された)。このようなことから、綺堂先生が半七の生年を繰り上げようと思い立ったのは、第三輯に収める旧稿を校正していた大正一二年八月頃と推定でき、それは実際に繰り上げた五年半前であったことが判ります。
同じ時期に執筆された「女行者」(大正一三年一月号発表)の、「母は六十で、戌年の生れでございます」という半七の科白は、繰り上げ後に辻褄を合わせた記述となっています。 しかし、この編成替えによって幾つかの齟齬を残すことになりました。その一つは「半七先生」で〔半七はこれに稍似た探索の経験を有っていた。それは前に云った「朝顔屋敷」の一件であるが、それとこれとは全く事情が違っているらしく感じられた。〕と「朝顔屋敷」事件に触れ、もう一つは「猫騒動」で〔「むむ、些と変だな。だが、手前のあげて来るのに碌なことはねえ。この正月にも手前の家の二階へ来る客の一件で飛んでもねえ汗をかかせられたからな」〕と「湯屋の二階」に言及し、ともに半七にとってはまだ起きていない事件を引き合いに出してしまったのです。この二つは、編成替えによって事件年が逆転したためです。さらに「勘平の死」で
明治三六年から三八年にかけて開通した路面電車(のちの都電)の「電車の停留所」を、「広重と河獺」ではまだ発売されていなかった紙巻きたばこの「常盤」を、ともに日清戦争の頃に語っていることです。これは「わたし」が半七老人を訪ねた時期を、日露戦争から日清戦争の
ころに繰り上げたことによります。 編成替えは年表などを作って綿密に行われたと思いますが、多忙な中での大幅な改訂であっ
たため、細部まで行き届かなかったようです。
以上のような改編と綺堂先生のご労苦を念頭において、「年代版」を楽しんでいただければ
と思います。
編成替えは年表などを作って綿密に行われたと思いますが、多忙な中での大幅な改訂であったため、細部まで行き届かなかったようです。
以上のような改編と綺堂先生のご労苦を念頭において、「年代版」を楽しんでいただければと思います。
【廻り灯籠】 岡っ引が破牢した泥坊に追いかけられるという珍談ですが、その端諸となった伝馬町の牢破りは史実で、『ききのまにまに』という異事見聞録に記録されています。綺堂先生は『武江年表』や『江戸名所図会』をはじめ、この種の記録書を丹念に読んで、巧みに創作の事件に結び付けていたようです。女に惚れられた男の弱さを描いていますが、結末の「女に惚れられるのは恐ろしい。あなた方も気をおつけなさい」という半七老人の言葉が心に響きます。
【お化師匠】 強欲な悪女と、純真な叶わぬ恋を対照的に描いています。「さあ申し立てろ。江戸じゅうの黄蘗だを一度にしゃぶらせられた訳ではあるめえし、口の利かれねえ筈はねえ。飯を食う時のように大きい口をあいて云え。野郎、わかったか。悪く片付けていやあがると引っぱたくぞ」、取調べ時の半七親分の江戸弁が冴えますが、綺堂先生も時にはこんなべらんめえ調でまくし立てたと伝えています。
【幽霊の観世物】 「その頃、浅草、仁王門のそばに、例の幽霊の観世物小屋が出来ました」とありますが、『武江年表』をみると万延元年七月の項に、「同月の末、浅草寺二王門の傍に見せ物出る。変死人或ひは幽霊等の作りものなり」とあります。これを安政元年に置き換えて創作としたのでしょう。冒頭の「社から帰る途中、銀座の地蔵の縁日をひやかして歩いた」は、綺堂先生の体験のようです。そのころ先生は銀座の新聞社に勤め、麹町区元園町の自宅を離れて銀座の近くに独り住まいをしていました。「麹町より銀座までの往復に時間を要し、夜学の妨げとなること多ければなり」と「遺稿 岡本綺堂年譜」にあります。
【半鐘の怪】 全編を通して唯一事件年が明らかにされてない事件です。「お照の父」に「猿芝居の猿が火の見の半鐘を撞いて世間をさわがした実例は、彼の記憶にまだ新しく残っている」とあり、この事件からあまり前でないことを示唆しています。私は「半鐘の怪」の「十月もお会式の頃から寒い雨がびしょびしょ降りつづいた」という記述と併せ、江戸時代の天気を調べて文久元年の事件としましたが、異論もあるでしょう。安政年間としている説もあります。
【海坊主】 品川で潮干狩り? 品川の海もすっかり埋め立てられ、そんな光景は一向に浮かびませんが、江戸時代の品川の旧東海道は東側がすぐ海で、ずっと遠浅になっていました。落語の「品川心中」は、品川の海が遠浅だったため、心中をし損なった噺です。潮干狩の人々で一大遊園地と化した遠浅の海に、天候の異変を告げる奇怪な男が現れますが、昔は雲の形や風向きの変化を見て天気を予知する古老が身近に居たものです。
【川越次郎兵衛】 ここにも史実がいくつか出てきます。冒頭に語られる江戸城の御金蔵破り、翌日に起きた本丸表玄関の出来事、掘田原の池田屋が田舎源氏のこしらえで向島へ乗り出した騒ぎ、国定忠治の仕置、安政の大地震などですが、江戸の記録書を捲って構想を練っている綺堂先生の姿が眼に浮かぶようです。「江戸三百年のあいだに、どんな悪戯をしても、どんな悪洒落をしても、江戸城の大玄関前へ行って天下を渡せと怒鳴ったものはない。全くこれが天下を渡す前触れだったのか知れませんね」という末尾での半七老人の嘆息は、幕末に敗残した徳川家の御家人を父に持つ綺堂先生の実感であったように思われます。
【金の蝋燭】 半七はこの事件が前出の御金蔵破りに関係があるらしいと睨んで、俄かに緊張の色を見せますが、あとでその推定が土台からひっくり返されてしまいます。ここに出る女の嫉妬心からくる意趣返しは強烈です。「女に怨まれちゃあ助からねえ。おめえも用心しろよ」という幸次郎への科白は、心して聴いて置くべきでしょう。金の蝋燭の由来は異様にも思えますが、原典は中国宋代の志怪小説集『鬼董』で、『岡本綺堂読物選集』(青蛙房)第七巻に「支那犯罪奇談」のうちの「金の蝋燭」として載っています。読み比べるのも一興でしょう。
【朝顔屋敷】 旗本の若殿がお茶の水で行方が判らなくなったという発端ですが、この辺りは綺堂先生が少年のころ歩き慣れた思い出の場所であったようです。先生の随筆『ランプの下にて』に、「その当時十四、五歳のわたしは、道連れもなしにその暗い寂しい草原を横ぎって、水道橋から本郷へのぼってゆくと、お茶の水の堤には狐の声がきこえた。わたしは小さい肩をすくめて、朴歯ばの下駄をかちかちと踏み鳴らしながら路を急いだ。野犬の群れに包囲されて、難儀したこともしばしばあった」とあります。そのころの綺堂少年は元園町の自宅からお茶の水を抜けて本郷の春木座へ、芝居の替わり目ごとに通っていたのです。先生の十四、五歳といえば明治十八、九年、当時のお茶の水辺りはまだ江戸時代の情景を残していたことが窺えます。