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注目すべき三つのこと
岡本綺堂といえば誰でも『修善寺物語』等、新歌舞伎の第一人者として、また河竹黙阿弥以来の最も優れた劇作家として知っている。が、彼の名をより大衆に親しみ深いものとしているのは、捕物帳の嚆矢である『半七捕物帳』の作者としての功績であろう。この連作は、「お文の魂」(※編集部註=本シリーズ第一巻)から「奥女中」(※編集部註=本シリーズ第六巻収録予定)に至る最初の七篇が「文芸倶楽部」(大正六年一月~七月)に連載されたのをはじめとして、昭和十二年二月、「講談倶楽部」に掲載した最終作「二人女房」まで計六十八篇を数え、単行本も、大正六年、平和堂出版から刊行された初版本をはじめ、数は多い。が、この連作がはじめて大きな評判を呼んだのは、大正十二年に刊行が開始された新作社の五巻本からではないだろうか。綺堂は、大正十三年五月刊行の新作社版『半七捕物帳 第四輯』のはしがきに「第三輯は去年の八月、原稿をとりまとめて印刷所へまわすと、間もなく彼の大震災に遭遇したのであるが、幸い印刷所が無難であった為に、原稿も消失の禍をまぬかれて、二月の後に市場へあらはれることになったのは、まったくの仕合わせであった」と記している。文中の印刷所は、当時、牛込区早稲田鶴巻町にあった溝口印刷所で、山の手にあったため、震災を免れたのだと思われる。捕物帳の嚆矢である『半七』は、作者綺堂の江戸に対する追懐の情から端を発したもの──彼の心中いかばかりであったろうか。
岡本綺堂は、明治五年、旧幕医の子として芝高輪に生まれた。父は維新に際して佐幕派として活躍したが、後に英国公使館に勤める柔軟な精神を持ち合わせていた。綺堂一家はそのために公使館のある麹町元園町に移っていくが、少年綺堂の遊び場となったのは、第一話「お文の魂」で“わたし”がKのおじさんの家に行く途中、化物屋敷同然となっていた旧旗本の屋敷であったり、彼の生家は「江戸時代の与力にして読本役者たる高井蘭翁の旧
宅」であり、彼の生きた時代はそのまま江戸の延長であった。さらに、明治も二十年を過ぎると次第に地方からの寄留人口が増加する一方、森鴎外が「市区改正論略」を発表したり、最初の東京市区改正条例が公布されたりして、江戸の面影を残す旧東京もその変質を余儀なくされていく。こうした中で綺堂の中で『江戸名所図絵』と探偵小説趣味が結びついて生まれたのが『半七』だったのである。九歳の頃より英国大使館の留学生から英語を学び、卓抜した語学力を身につけていた綺堂は、半七のことを「江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった」といい、初出時の「彼の冒アドベンチュアー険仕事」というルビから、誰しも「THE ADVENTURES OF」と銘打たれたホームズの第一短篇集の影響下にある事は否めないだろう。が、綺堂がホームズ譚に着眼したのは、ホームズ譚が十九世紀末のロンドンの地誌・世態・風俗を見事に活写していた点であろう。
綺堂は、昭和四年一月に春陽堂から刊行された二巻本のはしがきに「若しこれらの物語に
何らかの特色があるとすれば、(中略)これらの物語の背景を成している江戸のおもかげの幾分かをうかゞひ得られる点にあらねばならない。したがって私は半七老人の物語を紹介するに就いて、江戸時代でなければ、ほとんど見出されまいかと思はれるような特殊な事件のみを輯録することにした」ということばは、この連作の持つ意味の本来的な意味をよく伝えている。 そして綺堂の失われた江戸を何とか今日に残していきたいという思いは、この震災を通して、増々、その有効性を発揮していく。たとえば第五話「お化師匠」(※編集部註=本シリーズ第三巻)の中で描かれている下谷広徳寺は大震災で消失している。そして前述の新作社の五巻本の売れ行きを見ても、震災後の方が売れ行きを延ばしているのである。これは当時の読者が『半七』の中に描かれた往時の江戸をより切実に求めはじめた話に他なるまい。
さて、従来、『半七』が捕物帳の実質的開祖ではあるが、この三文字をはじめて使用したのは『半七』より一カ月遅れて「探偵雑誌」に掲載を開始した、泉斜汀の『弥太吉老人捕物帳』であるとされていた。しかし、「お文の魂」が掲載された「文芸倶楽部」大正六年一月号をひもといてみると、目次にこそ「江戸の探偵名話 お文の魂」としか記されていないが、本文に当たれば、見開き右ページ下に、角書きと題名に続いて、『半七捕物帳 巻の一」という文字がある。捕物帳の開祖は名実ともに岡本綺堂の『半七』なのである。しかし、綺堂は捕物帳ということばを使用すべきか最後まで迷っていたらしい。というのは前月号にもう一つ別題の予告「岡本綺堂氏は秘蔵の好材を展いて、『探偵名話 朱居の十手』を紙面に活躍させ」云々があるからだ。当時、捕物帳という名称はさほど耳馴れないものだったのかもしれない。綺堂はその捕物帳に関する定義を第二話「石燈籠」(※編集部註=本シリーズ第一巻)の中で「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引等の報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」と有名な定義を行ってる。だが、江戸学の権威、三田村鳶魚にいわせれば、捕物帳は正しくは捕者帳といい、奉行所から捕物に出動した人員の記録であるとのこと。
しかし、この件は綺堂が「歴史の中の『捕者帳』と虚構の中の『捕物帳』を者と物の二文字で区別した」(尾崎秀樹「戦後批判としての捕物帖」)という尾崎秀樹の説が最も寄った見方といえるだろう。
そしてこの連作の中で注意すべきことが三つある。一つは聞き役の“わたし”のモデルが綺堂自身であるらしいということだ。岡本経一は「人から説を聞く説話体の小説は、この捕物帳に限らず、『三浦老人昔話』以下、綺堂読物集に好んで用いた形式で座談で話好きな作者の面影がよく現はれてゐる。全く彼が老人に好意を持たれたのは、古いことに興味を持って聞き上手であったことと、『今どきの若いもん』に似ず、礼儀正しく、生真面目であったかららしい」と記している。また木村毅は、本書に収録されている「勘平の死」(一四二ページ)の冒頭部にある「歴史小説の大家T先生」は、恐らく、塚原渋柿園のことで、綺堂が明治三十年、東京日日に入社する際、塚原の下につき、彼が後々、作家として大成するに必要なすべてのものを授けられたから、“わたし”=綺堂ではないか、と考察している。
また作品がリアルであるのは一つには、実際に起こった事件を作中に盛り込んでいるからであろう。例えば、第二十八話「熊の死骸」(※編集部註=本シリーズ第一巻)の発端となる弘化二年一月二十一日の火事は、『武江年表』に記されているし、第五十六話「河豚太鼓」(※編集部註=本シリーズ第五巻収録予定)に登場する子供の玩具も作中の事件に合わせて、年代を多少ずらして小道具に用いた例であろう。本書収録作品でいえば、「あま酒売」(六ページ)の老婆が出現した年代も実際のそれとはずらしてある。が、この連作を読んでいて最もリアリティがあるのは、他ならぬ半七自身ではあるまいか。綺堂は、「サンデー毎日」昭和十一年秋季特別号に掲載された「半七紹介状」で、半七は、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(岡田)へ午飯を喰いに入った時、偶然知り合った老人で、捕物帳の体験をいくつも話してくれ、これをもとに自分は作品を書いたと、まことしやかに実在化させてしまっている。こうした過程、すなわち、綿密な考証により半七を江戸の地誌・風俗・事件の証人としたり、彼の生涯の履歴を整えたり、──第一話「お文の魂」及び第二話「石燈籠」を参照されたし──綺堂自らその実在をほのめかすということは、この連作の隠れた目的が、総体として、幕末から明治を生きた半七という一人の市井人の姿を浮き彫りにすることではなかったのか。だからこそ「時代の前後を問わずに」書かれていった連作が、本全集のように、年代順にまとめることが可能なのである。さらに付け加えるならば、戦後、昭和二十四年十二月、捕物作家クラブの面々によって浅草花屋敷内(現在は浅草寺裏、弁士塚向いに移動)に“半七塚”が建立された。これによって半七の虚構から実在への道のりは完成されたといっていいだろう。
さて本書に収録された作品は、安政五年から六年にかけての事件(但し「広重と川獺」〈六七ページ〉のうち、後者は弘化四年)である。そろそろ幕末前夜、時代の変革期には人々の無知や迷信から不可思議なことが起こったとされ、それが怪談として歴史の表面に現われやすい。が、「ズウフラ怪談」(三六ページ)などはじめからネタを割っておいても最後まで読ませる手腕はさすがである。また、「地蔵は踊る」(二三七ページ)で半七が「わたくしは俳諧のことなぞぼんくらで」云々と語っているが、前述の『綺堂年代記』の中で綺堂は明治三十年頃からずっと俳諧に親しんでおり、『半七』の描写が写実的であり、かつ簡潔で枯淡であるのは、「季題趣味の横溢と共に、俳文修行が与してゐるかも知れない」と記している。所詮、犯罪は色と欲、それを描いていても、まったく生臭い感じがしないのは、文章の持つ品格のせいに違いない。また、怪談仕立てといいつつ、「帯取の池」(一七一ページ)で「天保以後の江戸の世界には、相当の物種を遣って世間を騒がせて、蔭で手をうって喜んでいるような悠長な人間は少くなった」と、時代相当のものが怪談となっている、と相対化させているのもさすがである。
では最後に『半七』を読む際に注目すべきことの三つ目を記してこの稿を終えることにしたい。それは、聞き手の“わたし”を作ったことによって、失われてしまった江戸の面影ばかりではなく、これから失われていくであろう明治の姿も描いている点ではないのか。「広重と川獺」のラストなどその好例ではあるまいか。そして『綺堂年代記』の中には綺堂の中学生時代のエピソードが次のように記されている。
そのエピソードとは、父の勤めている英国公使館の書記官アストンが、綺堂に告げた、今日から思えば、一つの啓示ともいうべきものである。
二人で神保町を歩いていた時のこと、そのあたりは路幅が狭く家並も悪い、おまけに各商店の前には雑然と色々な物が積んであり、体裁が悪い──それを恥じた綺堂は、「ロンドンやパリの町にこんな穢いところはありますまいね」と話しかける。すると、アストンもそれを肯定するが、意外なことに、日本の町では、倫敦や巴里、新嘉坡や香港にも見出すことの出来ぬ大きな愉快、すなわち道を行く老若男女の楽しげな顔を見出す愉快を感じるといい、さらに次のように続けるのである。
「東京の町はいつまでも此儘ではありません。町は必ず綺麗になります、路も必ず広くなります。東京は近き将来に於て、必ず立派な大都市になり得ることを、私は信じて疑ひません。併しその時になつても、東京の町を歩いてゐる人の顔が今日のやうであるか何うか、それは私にも判りません」
本来、一つの表情であるべきはずの歴史の女神クリオの顔は、これを見る者の意識によって様々に変化するという。岡本綺堂が生み出した半七こそは、このアストンの言葉が示すように、幕末から明治、そして近代へと、歴史の転換を潛り抜けねばならなかった人々が獲得した等身大のクリオの横顔だったのである。