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著者インタビュー

― 岩井さんは現在八洲(やしま)学園大学国際高等学校の校長、八洲学園大学の教授、学校法人八洲学園の理事でもあり、僧侶でもあります。ですが、以前はアメリカに長年お住まいだったということで大変ユニークな経歴を持っていらっしゃいます。そこの経緯をもう少し詳しく教えて頂けますか?

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岩井さん(以下敬称略): アメリカの大学・大学院を卒業した後、日本に帰国せずにアメリカに残って都市開発や都市政策に関わる仕事をしていました。居心地がよくて、気がついたら12年ほどアメリカに滞在してしまっていました(笑)

アメリカは年功序列的・論功行賞的な社会ではないため、とても暮らしやすかったのですが、それがゆえにすべてが実力主義・成果主義で、とても厳しい一面もありました。成功のためなら平気で人を裏切ったり、お金や権利、そして名利への貪欲さが露骨に見える世界で、人間の醜さ、本性が見えてしまい、「何のため人間は生きているのか」という問題意識を持つようになったのです。

禅は「自分はなぜ生まれてきたのか」「自分の存在とは何か」ということを究明することです。「何のため人間は生きているのか」という私の問いも、禅を学べばその答えが見つかると思いました。また、人間関係の難しさを経験していくにつれ、結局は「人の質が大切」と実感したのですが、人の質を向上する場所は教育ですから、教育現場でも働きたいと思うようにもなりました。ちょうどその時、現在私が奉職している学校法人八洲学園の理事長と出逢い、教育に携わる機会をいただいたのです。

― 聞けば聞くほど、ユニークな経歴です。ボストン大学大学院で都市政策学を学んだあと、花園大学の大学院で仏教学に転科したのはなぜだったのですか?

岩井: 禅を本格的に学びたいと思ったのは、アメリカの大学院を修了した後からです。大学院を出た後、アメリカでバリバリ働いていたんですが、その頃、自坊の師匠が体調を崩して仏事を手伝うために一時的に帰国しました。

その際、師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」と言われました。自坊は四国にありますし、ましてや富士山を動かすことなどできませんので、唐突な質問に私は言葉を失ってしまいました。すると師匠から「アメリカの大学院を出ても、こんな簡単なことが答えられないのか」と言われたのですね。

その時、学歴や職歴ましてや名声や名利などは何の意味もないと痛感しました。今までの自分の価値観が総崩れとなって、頭を思いきり強打された感覚に襲われました。今思えばきっと欠点だらけの私の人間性を師匠は見抜いて、こうした禅問答を私に投げかけてくれたのだと思います。そこからですね。真剣にもっと禅のことを知りたいと思うようになったのは。

― 師匠から「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問をされたとき、どう岩井さんなりにお答えしたのですか?

岩井: 師匠と弟子の関係である以上、そこには緊張が張りつめています。質問をされるだけで体が硬直してしまうような緊迫感があるのです。そんな状況で、論理的に考えれば「できない」と答えざるを得ない質問が飛んできたのですから、何も答えることはできませんでした。考えれば考えるほど答えが出てこなくなるし、どうしてそんな質問をしたのだろうという思いもありました。

― この質問は、いわゆる「頓知」ですよね。

岩井: 頓知というか、まさに「禅問答」です。例えば、有名な禅問答で、「両手で拍手をすると音がする。では、片手で拍手をしたときにどんな音がするか」という問いがあります。これも、ロジカルに考えて答えが出るものではありません。

これが禅問答なのです。常識や固定観念、凝り固まった自分の殻を割って、もっと心身を含めてゼロから考え直さないといけない。師匠の「今、この場から富士山を動かしてみなさい」という質問も、そのような意図があったのだと思います。

ただ、禅問答に答えはないかというと、そうではなく、修行の一つですからしっかりとした答えがあると思います。ただ、それは伝統的な修行道場での師匠とのやり取りの中で見えてくるものではないでしょうか。

― この『楽になる禅のおクスリ』は、その名の通り「禅」の考え方が全体に流れています。岩井さんは「禅」のどんなところに魅かれましたか?

岩井: 禅は、何事にもこだわらない、執着しないということを重んじます。ですから、とても潔いというか、後味が良く、何とも言えないすがすがしい気持ちをもたらしてくれる教えなのです。そこに惹かれましたね。

禅語に、「至道無難、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」という言葉があります。これは「ただ選り好みさえしなければ人生そんなに難しくはない」という意味です。好き、嫌い、正しい、間違っていると選り好みしまうところに、他人との争い事が起きてしまう原因があるのでしょう。この言葉を実践するだけでも、随分と楽に毎日を過ごせるようになると思います。

私は本来とてもマイナス思考な人間ですが、禅の教えを学んでだいぶプラス思考になりました。それもきっと禅には気持ちを楽にさせるおクスリのような教えがあるからだと思います。

― なるほど。しかし、このように面と向かってお話していると、岩井さんがマイナス思考だったとは考えられません。

岩井: 本当にマイナス思考の人間でした(笑)嫌なことがあればずっと悩んでいるような性格だったんです。実は、今でも気を抜くとネガティブ思考に戻ってしまいそうになります。これは運動でも勉強でも同じですが、トレーニングを続けていないとすぐに元の状態に戻ってしまうんです。

だから、もし自分のネガティブな部分が顔を出してきたときは、自省をすることが必要です。誰も自分のことを分かってくれないのではなく、分かってもらえないのは、自分自身に原因があると考え、反省するのです。

よく「悟りの境地に立った」といいますが、私は悟りを開いてからずっとそこにいるのではなく、開いてもすぐに俗世間に戻ってきてしまい、また開いては戻り…ということを繰り返すのだと思うのですね。だから、死ぬまで修行は続くものなのです。

嫌なことをクリアすることで、人間の質を高めていく。そう考えれば、嫌な人やことを目の前にしても、自分が向上するための一つの壁であると思えますし、とてもポジティブに受け取ることができます。

■ 現代を生きるための「自分で判断する力」を身につけるには?

― では、そもそも「禅」とは一体なのでしょうか。

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岩井さん(以下敬称略): 禅とは「己事究明」です。わかりやすく言えば、「自分は何のために生まれてきたのか」「自分の存在とは何か」ということ、つまり「実存」を究明することです。これは他人とは共有できない、普遍的にはならない自分だけの答えです。

自分以外の外の世界や人に頼らない「自己確立」した人間性を体得すことを、禅では重んじます。こう言うと、禅寺にも本尊や仏像があって、それらを拝むのは矛盾しているのではないかと思われるかもしれません。しかし、禅宗はお釈迦様と同じ人間性が自分にもあることに気がつく教えですから、お寺にある本尊や仏像を拝む行為は、本来あるべき自分自身の姿を拝むことなんですね。

禅宗は仏心宗とも言われ、仏の心の教えをそのまま実行することを重んじます。ですから、禅は、本当は仏教というよりも仏道という方が正確なのだと思います。

― 岩井さんが師匠から問いかけられた「禅問答」も、自分なりの答えを探すためのものなのですか。

岩井: そうですね。禅問答に対する答えは一つではありません。また、老師と雲水(修行僧)の波動が合う、そのときのタイミングによっても変わります。AさんとBさんの答えが同じであっても、Aさんの方が老師との波動があっていて、Bさんがあっていないとき、Aさんの答えは正しく、Bさんの答えは間違えているというケースも出てきます。

ただ、やはり大事なのは、普遍的にならない自分だけの答え、誰とも共有することができない自分だけの答えを探ることです。例えば「痛み」は、誰かに分けることも譲ることもできない。解決できるのは自分だけです。まさに「己事究明」ですね。

― 私が本書で最も響いた箇所が「自分で判断することの大切さ」です。実は自分自身の責任で判断できる人は少ないのではないかと思うのですが、判断するときに何を基準にすればいいのでしょうか。もちろん、そのときのケースによるとは思いますが。

岩井: 判断基準は「どれだけ自分自身を信用できるか」ということに尽きるのではないでしょうか。自信とは、一言でいえば「肚の坐り具合」、つまり「覚悟」ですね。これは自分自身を信用できなければなかなかできないことです。

多くの人は何かを判断するとき、人のアドバイスだったり、周りからの評価だったりが基準になっているように思います。何かを判断する時に、人や周りの環境に頼るのは楽ですし、いざという時に責任転嫁できますから、便利です。皆さんの職場を見ても、自分の意見を言わずに、現状の報告だけだったり、すぐに上司に答えを丸投げする人が多いのではないでしょうか。そういった人たちの口癖は「私には権限がないから」といった言い訳です。

仕事のできる人は、しっかりと「自分はこのように思います。その理由はこうだからです。どうでしょうか」といったシナリオを「松・竹・梅」の3つのレベルで用意して聞きます。
しかし、自分の意見をロジカルに主張できない人は、上司のせい、会社のせい、親のせい、学校のせい、先生のせい、世の中のせい…といったように人のせいにして生きています。

自分で判断・決断しなければ、そこには負う責任はありません。責任がないのは楽ですが、そうしたライフスタイルに慣れてしまうと、いざ自分で判断しなければならない時に何も自分で決めることができなく、動揺してしまいます。

― 確かにおっしゃる通りです。

岩井: 仕事でもプライベートでも毎日の生活の中で、自分で決断しなければならない場面はたくさんあります。もちろんいつも自分の決断が正しいことはあり得なく、時には間違うこともあります。それはそれでよいのです。大切なことは、過ちを犯さないことではなくて、過ちを犯した後にどのように対処し、状況を改善していくかということです。これは覚悟というか肚の坐り具合一つでできることです。禅はそうした覚悟の重要さを教えてくれます。

自分の人生上の問題であればなおさらです。先ほども申し上げたように、禅は「己事究明」です。すべては自分の責任もとで普遍的にはならない自分だけの答えを探して毎日を生きるので、他人はそこに入り込む余地はありません。周囲は文句も言えませんし、自分のために自分で決断すれば、そこには後悔も存在しません。そういう意味で、自分で決断することは大切だと思います。

― 本書を執筆する上で気を付けたことはありますか?

岩井: なるべく一般の人と同じ目線で書くことを心がけました。

有名寺院の住職が書かれた本はたくさんありますが、専業僧侶たちは満員電車で朝夕通勤しませんし、会社や取引先での人間関係の難しさも経験していないことが多いでしょう。もちろん在家社会を超越した高僧たちからのご高説は、とても説得力がありますし、為になる話もたくさんあります。

しかし、一般の人はもっと自分たちの生活に直接関連した禅の話というか、自分が抱えている日常の苦しみを解決する具体的な手段を求めていると思うのです。ですから禅の教えが単に精神論ではなく、実生活にもしっかりと活きて苦しみを取り払える実践的なものであるということを伝えようと心掛けました。

― 本書をどのような方に読んでほしいとお考えですか?

岩井: 「禅」の本は、ご高齢の方が読む傾向にありますが、本書はむしろ働き盛りの人や、今人生真っ只中で、悩みを多く抱えている方に是非読んでもらいたいです。苦しくて辛い自分の人生を、本書を通じて少しでも改善してもらえればうれしいです。

また指導者や管理職、そして先生や保護者の人々に読んでもらいたいですね。そして本書で紹介している楽になる方法を困っている人とシェアしてもらって、一人でも多くの人々が幸せに近づくことを願っています。

「禅」は、どうしようもないときにどうすればいいのかということを教えてくれるものです。最近のデータでは、うつ病にかかっている社会人が100万人以上いるといわれていますし、全国の学校では5000人以上の教師が精神疾患で休職している状態です。子どもたちに生きる力を教えている先生たちが生きる力をなくしている。こんな状況を見てみると、いかに現代人が苦しみを解決する方法を持っていないかが分かるはずです。

この本には、そういった方々に向けて、ちょっと考え方を変えるテクニックや視点の変え方を書いているのでぜひ、読んでほしいですね。

― では最後に、読者の皆様にメッセージをお願いします。

岩井: 本書は、禅の教えから「生きるための処世術」を取り出して、「宗教」臭くないかたちで少しでも多くの人にわかりやすく伝えたいようと心掛けました。この本には、迷い、苦しみ、憎しみも静かにどんどん遠ざかっていくような心の在り方のヒントがたくさん紹介されています。本のタイトル『楽になる禅のおクスリ-人生の流れを変える処方箋』としたのも、皆さんの苦しみが本書を読んで少しでも軽減されればという願いがあったからです。禅の智慧をぜひ皆さんにお届けできたらうれしい限りです。