新刊JP 藤尾秀昭『「致知」の言葉 小さな人生論』

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藤尾秀昭インタビュー

2008年6月3日NHK深夜宅急便より(一部抜粋)

Q、「致知出版」とはどんな出版社なのですか?
今から30年前に「致知」という雑誌を出したんですが、根底のテーマは人間学なんです。人間学というのは人間はいかに生きるべきかを追求していくというもので、致知出版はその人間学を根本の理念に置いた出版社としてスタートしています。だから、人間学を学ぶような出版社ということで、人生論を追求してきましたね。
Q、藤尾さんがお書きになった『小さな人生論』には、既に亡くなった方やまだ生きている方含めてたくさんの方が出てきますね。例えば釈迦、孔子をはじめとして、福沢諭吉や宮本武蔵、リンカーンといった歴史上の人物、松下幸之助さんや稲盛和夫さん、鍵山秀三郎さんといった方で多彩ですよね。
やはり人間の見識というのは、歴史と古典と人物、昔の人や一生懸命やっている人。そういうミックスの中から人間の見識は生まれてくると思うので、まさに古今東西、いろんな人たち、人生のことを紹介させて頂こうとということで、いろんな人が登場しているんすね。 それとですね、30年前のリーダーと今のリーダーを比較してみますと、今のリーダーの方にもそういうものを持っている方もいらっしゃいますけれど、昔のリーダーはなんとなく風格があってですね、人格的にもスケール的にも度量の広い人が多かったんですけど、その人たちと最大のリーダーを比較すると人間味の厚みがないな、というところで、それは何故かといいますと、縦軸の価値観ですね。今の人たちは横軸だけの価値観だけで生きている。横軸だけの価値観というのは、よその会社と比べてどうだとか、同業他社と比べてどうだとか、現代のヨコだけを見ている。 縦軸の価値観は、偉大な人物の学びがあるので、横から風が吹いてきてもブレないんですね。そういう意味でも人間学の必要性を求めている人はいるんですけど、そういう思いがあるんですよね。 縦軸と横軸を結んではじめて人間学ができるということですね。
Q、雑誌「致知」を出して30年ということですが、この「致知」という言葉の意味についてお聞かせ下さい。
その前にですね、30年前、創刊させて頂くときに扇谷正造先生という「週刊朝日」の名編集長で有名な方がいらっしゃるんですけど、その扇谷先生に雑誌名について相談に行ったんですね。
そうしましたら、有楽町の電気ビルの上でしたね、そこで扇谷先生が「こんな硬い誌名の雑誌を誰も読まん」と言われまして(笑)。「これからの時代は中国の古典のような誌名つけても誰も読まない。これからの時代は横文字だ」という話をされました。
それで私は、「では、どのようなタイトルが良いと思いますか」と聞き返しますと、扇谷先生は「このタイトルにしなさい」と書いてくれたんです。それを見ましたら「やあ、こんにちは」と書かれてありました。それを持ち帰ってまた皆で相談しまして、やはり「やあ、こんにちは」じゃ締まらない、「致知」でいこう、ということになりました。
だから、「致知」は創刊3号目までは、表題の上に「やあ、こんにちは。致知です」って書いていて扇谷先生の義理を果たしたんですけど(笑)、「やあ、こんにちは」でしたら30年続いていないですよね。

それで「致知」の意味ですね。「致知」って馴染みにくくて初見では読みにくい言葉ですが、これは中国の古典である『大学』という本からとっています。
『大学』は「大人の学」ということで、「大人」とは「人の上に立って人びとに影響を与える人」のことを言うんですけど、その『大学』の一番最初に、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」とあります。私は最初、この「明徳」の意味が分からなかったのですが、『大学』では「この宇宙にも人生にも法則がある、その法則を明らかにすることが、人の上に立つ人によって一番大切な道」だと説いているんです。
そして、その法則を明らかにするために大事なことが「格物致知」であると言うんですね。この「格物致知」の解釈については難しい議論がたくさんなされていますが、私なりに言うと、「格物」は「ものにぶつかること」。つまり、「格物致知」とは「ものにぶつかったときに知る」ということです。言い換えれば、人間の知識は、体験や経験を通したときに本当になるということですね。
だから、「致知」というのは人生の極意を説いた言葉です。我々は各界の先輩がその人の体験を通して得た英知を学んでいこう意味で、この「致知」という雑誌を作り続けてきたのです。

金馬車50周年記念対談~人間力が企業を育てる 藤尾秀昭&高濱正敏より(一部編集)

Q、「致知」は若い人も含めて、例えば今日入社したような人でも一緒に学んでいける本であると思うのですが。
たぶん若い社員は『致知』を読んでも分からないと思います。なぜならそういう習慣がないし、環境もない。真面目に活字を追いかけていく習慣が皆無になっていますからね。 道元は、「霧の中を歩むと自然と衣が濡れる、よき人に交わればよき人になる」と言っていますが、つまり、人間は触れるもので決まるのです。すぐれた書物はすぐれた人格との出会いになる。だから、生きる指針となるような本を読む習慣を付けなければなりません。
Q、若い人たちの考える力がなくなっているという感覚はありますか?
日本の教育は危機的状況にあります。私の会社の社員がスーパーで耳にした中学生くらいの姉妹の会話だけれども、姉が「ハラへったー、なんか食いてぇよー」というと妹も「オレもだ」と言ったそうです。それに対して母親は何も言わないし、そういうことを是正する親としての力もない。 人間は人の間で育っていくものです。家庭教育はもちろんですが、経営者は会社を育てると共に、社員を教育していかなければ世界に伍していけなくなってしまいます。
Q、経営者は教育についてどのような対応をとっていくべきですか?
今出来ることは何かというと、会社という場を高めていくことです。中小企業の経営者が、手前味噌になるけれど「致知」のような雑誌に目覚めて、ただ金儲けに走るのではなく、人間の教育に目覚め、真に幸福な人生とはということを知らしめていけば、日本はまだ立ち直れると思います。
Q、では、経営者は具体的に、どのように教育を捉えるべきなのでしょうか。
経営者はスキルも大事ですが、根本に人間教育、つまり人づくりを置くことが大切です。それが企業の活力の根源です。 話を転じますが、会社が発展する条件には3つの要素がある。1つは「経営能力」。商品開発、財務、経営戦略の3つの能力が発揮されることが必要です。2つ目は「使命感」。社長や社員がこれを持っているか。3つ目は「人間性」。社長からパートまで、人間性を高めるよう教育を行っているか。この3つの要素を、会社の体質として植えつけていくことが重要なのです。
Q、良い会社の条件とはどのようなものだと思いますか?
優良企業に共通する要素というのがあります。1つは経営方針が徹底されていること。2つ目は、目標が全社員に共有されていること。3つ目は、全社員が目標への情熱を共有していること。そして4つ目が成果の共有です。 私自身、29年間いろんな会社を見てきた感想として、良い会社に共通しているのは、No.1とNo.2の呼吸があっていることです。No.1だけでは限界がある。2人の力を合わせれば不可能も可能になる。
Q、No1.とNo.2の呼吸があうと、どのようなことが起こるのでしょうか。
これは家庭と似たところがありますね。No.1がやったことを、No.2が愛情で翻訳してくれることが大切です。たとえ父親が飲んで遅くなったとしても、母親はけなしたりグチを言うのではなく、私たちのために遅くまで頑張ってくれているのよと言えば、子どもはよく育ちます。人間にはそういう徳性があるんです。 人間の成長するシステムは同じです。社長のやっていることをNo.2がほめて信じていけば、社員は伸び、会社は成長していきます。
Q、No.2の育成は難しいと思いますが、その点についてはどうお考えですか?
そこが社長の悩むところですね。しかし、解決の秘伝はありません。自分で解くしかない。 また、育たないと思わないことは重要です。ぜったいに育つと思うことです。自分を理解する人間はきっと生まれる。この会社は使命感があると考えていけば必ず育つと、私自身は思っています。 ある会社では、会社が危なくなったとき、社員が社長これを使ってくれとお金を持ってきた。一方、幹部がすべてを持って早々に逃げてしまう会社もある。どちらの会社にするかですね。
Q、最後に、メッセージをお願いします。
人間は皆ひとつの立場を与えられて生きている。与えられた場所で、与えられた条件をぎりぎりまで活かして、最善を尽くす。つまり時、所、位の自己限定ということですが、これこそが人生を幸せに生きる最大・最深の秘訣です。不満を言っている間は何も解決しません。皆様に、このことを伝えたいですね。

少林寺拳法 会報2007年5月号、井上弘氏との対談より(一部編集)

Q、『致知』はさまざまな分野の一流といわれる人たちの記事が載っており、たいへん勉強になりますね。
『致知』は、2007年で創刊29年目、来年は30年を迎えます。長いことやっているといろいろとありまして、先だってわが社は中江藤樹賞をいただきました。これは、中江藤樹の徳業にちなみ、人づくりに功績のあった団体あるいは個人に贈られるもので、たいへん光栄なことだと思います。 中江藤樹という人は江戸の中期の人で、日本の陽明学の祖ともいわれていますが、彼は学問について次のように言っています。「学問は心の汚れを清め、身の行いをよくすることを本実とす」と。つまり、人間の心の汚れを清めて、日々の行いをよくすることが学問の本当の目的だといいます。 そして、「偽の学問は博学の誉れを専らとして」とも言う。つまり、自己の名誉のために知識を学ぶのが偽の学問だと。で、「己が名を高くせんとのみ、高慢の心を眼とし」「孝行にも、忠節にも心がけず、ただひたすらに記誦・詞章の芸ばかりを努めるゆえ、多くするほど心立て、行儀悪しくなれり」と言っている。偽の学問は、やればやるほど人柄も悪くなるし、人品も卑しくなる。結局、自分が人を見下すような人物になってしまうよ、ということです。これはそのまま、現代に生きる私たちにも通じる言葉ですね。
Q、その学問観は「仕事」にも通じることですよね。
イエローハットの創業者である鍵山秀三郎さんは次のように言っています。「私が社員によく言うのは、『最大のサービスというのは、君の人格を上げることだ』と。 やはり、仕事もその人の人格なんですね。鍵山さんの言うとおり、どんなに高度で高潔な仕事でも人格の低い人がやったら、仕事自体の価値は下がる。逆に世間的価値の低いとされる仕事でも、人格の高い人がやると、その仕事が高まっていく。 ほんとうの学問というのは、地下水脈みたいに滅びないものなのです。その地下水脈をもう一度呼び戻して、私たちの心に精粋な水を流していくのが、うちの会社の『致知』の役目であると思います。
Q、「ほんとうの学問」とは具体的に一体どのようなものなのでしょうか。
学問には二つあります。一つは人間学、人間特有の「徳」を養っていく学問です。思いやりや愛情、勇気…それらは生まれつき持っているのだけれども、修養して開発しなければ埋もれたままになってしまう。その徳性を教えていく学問を、人間学というのです。 もう一つの学問は、いわゆる知識・技能を磨いていく学問です。そのときの社会が必要とする技能を学ぶわけです。これを、時務学といいます。 でもやはり、重要なのは人間学ですね。人間学で徳を養うから、時務学で得た技能も知識も生かすことができる。逆にいえば、徳を学ばない人が、いくら知識・技能を勉強しても、世の中はおかしくなっていくのです。
Q、その意味で、大人の役割は大きいですよね。
こんなエピソードをご紹介しましょう。吉田良次さんという人のお話です。 吉田さんは自宅の納屋を改築して、単養塾幼稚園という保育園を開設した。そこで、2歳から6歳までの常時20人ほどの園児を相手に、古典の徹底した素読教室を実践したのです。吉田さんが先頭に立って、とにかく朗誦をする。意味を教えたりは一切しません。この繰り返しが驚くべき力を発揮するわけです。 1年もしないうちにどの子も古今の名言をすらすらと朗誦できるようになるのです。そして、新しく入ってきた子は先輩を見て、見よう見まねで学んでいくわけです。そうするうちに、いつしか漢字交じりの原文を読み、書き、意味を理解するようになっていく…どうですか? すごいでしょう? 人間とはすごい能力を持っているわけです。そしてそれは、与えられるものによって変わる…だから、与えるべきときに、ちゃんとしたほんとうに正しい教えを教えていくと、ほんとうにすばらしい成果が花開くわけですね。