人生生涯 小僧のこころ

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著者:塩沼亮潤インタビュー

-1、『人生生涯 小僧のこころ』を拝読致しまして、 1300年の歴史の中で2人しか満行出来なかったという千日回峰行の凄まじさに圧倒されました。
塩沼さんは、なぜ千日回峰行に挑戦しようと思われたのでしょうか。

私が行に憧れる心が芽生えたのは、幼い頃です。
それ以来、高校卒業する時まで白装束を着て行をやりたいという心は色褪せませんでした。
その根底には、自分の心の中に少しでも人の役に立ちたいという心があります。

私の生まれ育った環境は思い通りになるような生活環境ではなく、周囲の方々に助けられて育てられました。 そのご恩に報いていかねばという想いが強かったのだと思います。
また、私の家では、古き良き昭和の家庭環境が残っており、 小さい頃から毎朝祖父祖母が神棚に手を合わせている姿を見ておりました。

そういう環境の中で、仏様に対して敬意を払う心が培われていったのではないでしょうか。
人様のお役に立てるようなお坊さんになるためには、まず自分の気持ちが穏やかであり、 色々なことを問われたときに、適切な言葉を皆様に申し上げさせて頂くような自分を作らねばならないという思いがありました。
人生という行を通して、自分自身を深く掘り下げることが必要だったのだと思います。

-2、千日回峰行を通して学んだことはどのようなことだったのでしょうか。

行を通して学んだことは、「よく反省すること」「よく感謝をすること」「思いやりを持つこと」の3つです。
人間は、自分が与えられた環境や人間関係において、普段は自分が悪いと反省することなく生きていることがほとんどです。 しかし、そういうことに心を傾けた時に人間は成長します。 与えられた環境に感謝をし、生かされているということに感謝をする。
人に対する思いやり、人の身になって考えるということをできるようになって、初めて成長が始まるのではないでしょうか。

こういうことは先人たちが言葉として残していますし、親が教えてくれたりするものではありますが、 それを頭で理解するのではなく、体得するのは困難です。 それが、私の場合、行を行い、大自然という道場に身を置く中で、風に吹き飛ばされたり、 太陽に照りつけられたり、寒さに震えたりするようなことの中から、当たり前のように学んだだけのことだと思います。 良く生きるためには、「足ることを知る」のが一番重要です。

自分が一番不幸だと思っている人も、そうではない人もいますが、それは心持ちで変わります。 100点中30点で不幸と思っている人も、十分だと思っている人もいます。 自分が不幸だと思っている人は、残りの70点を埋めなければ幸せになれないと、 「上を、上を」と目指すことが不幸の始まりなのです。

100点のうち30点もあるのだから、ないよりましだと思うことが大事です。
素直であり謙虚な心が宿ってくると、自然に感謝の心が導き出されてきます。 ただ、これは向上心がない、ということではありません。向上心においては、常に出来る限りのうち、 100%の誠意を持って取り組んでいかねばなりません。精一杯頑張る中で、与えられた環境に感謝をする。 人事を尽くして天命を待つ。やることはきちんとやり、出た答えに「なるほどな」と思う。 残り70に対してもっと頑張るという心をもつということが大事なのではないでしょうか。

-3、現代社会においては、より効率の良いやり方を求め、より早く目標を達成するということが尊ばれる傾向にありますが、「行」はその逆で、効率とは縁がないところで大きなものを得るのではないかと思います。現代社会における「行」の意味とは何でしょうか。

行には、人それぞれの道があります。
私はたまたま、お坊さんとして行をやることが定めとなりました。 ただ、行を現代の人が皆、やったほうが良いということはありません。

私は、人には、それぞれの人生があるからこそ、人生=行ではないかと思うのです。 私の定めは、精一杯行という役目を果たし、皆さんにお伝えしていくことです。 また、私にとっての行とは山に入ることだけではなく、山で精一杯会得したことを、 里に下りてきて皆様にお伝えすることまで含まれます。

そのことで、皆様が人生の行に役立つような言葉をお伝えすることが自分の役目だと思っています。 行が終わった後に、恨みや憎しみ、人を分け隔てする心が残ってしまっては意味がありません。 良く学び、良く行じて、悪い心を少しずつ取り除いていくことは、山の行も里の行も一緒です。

生まれてきた時には「無邪気」というように、邪な心がありません。 それがだんだんと、「欲しい」とか「人より良くなりたい」という色々な欲望が芽生え、殻を一枚一枚つけていきます。 その殻を「はい」と割ってやることが行なのではないでしょうか。 クルミが殻があったのでは中の美味しい実が食べられないのと一緒な様に、人間には綺麗な心が存在しています。 生きていると。いろいろなものが殻になってしまうものなのです。

何不自由のない生活をしている中では、なかなか深く反省をしません。 大自然の中で命からがらの中でやっているように、本当に深く追い込まれると、人の命のはかなさに少しずつ気づきます。
その積み重ねが、「人は一人では生きてはいけない」、「皆で助け合って生きていかねばならない」と反省する心へとつながります。 それこそが、行の意味なのだと思います。

-4、塩沼さんにとって、「生きる」とは何でしょうか。

この世に生まれてくること自体が、自分の心をより深めていくための期間ではないかと思います。 徒競走であれば「位置について、よーい、どん」で始まりますが、人生ではそれがありません。 気づいた時には人生は始まっており、どこから来てどこへ行くのかもわかっていません。 お釈迦様は「捨置記(しゃちき)」とおっしゃいました。

わからないことに時間を費やしていると、人生がとんでもない方向にいってしまうということです。 私たちは今見えて肌で感じる世界しかわかりません。 アメリカにいかないと、アメリカという国のことはわかりません。 自分が生かされている時間を精一杯頑張る、それこそが生きるということだと思います。

-5.この本を手に取ろうと思っている読者、または既に手に取っている読者の方々へメッセージをお願いします。

人生の中で、誰もが心に抱える一番の問題は、人と人の人間関係だと思います。
その人間関係をいかにストレスなく、分け隔てなく、共に生きていけるようになる手助けをするような、 そんな本であればと願っています。

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