だれかに話したくなる本の話

野球のない3日間。「カープ」と「復興」について

提供: 新刊JP編集部

こんにちは、金井です。広島東洋カープのファンの一人です。

戦後間もなくの1950年1月、広島にプロ野球球団が誕生しました。「広島カープ」です。
その球団創設の理念は「原爆で廃墟と化した広島に健全なスポーツを与えて、精神的な復興の一助にする」というものでした。(『カープの歩み1949-2011』より)

1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、島病院の上空でさく裂。広島市の推定によれば、死者数はその年の末までに14万人を数えるといいます。
廃墟と化した広島。8月9日には広島電鉄が己斐電停~西天満町電停の間で運転を再開するなど、少しずつ復興への道が進んでいくものの、人々が前を向いて歩んでいくには大きなモチベーション(精神的な支え)が必要でした。

そこで広島の財界はプロ野球球団を創設する動きに出ます。
もともと広島は国内きっての野球大国。広島商や広陵、呉港などの名門高校が多数あり、スター選手を輩出していたことから、野球の文化が根付いていました。
そこに正力松太郎による二リーグ制構想が相まって、一気にプロ野球球団誕生の機運が高まります。

その際の市民の熱狂ぶりは中沢啓治作のマンガ『広島カープ誕生物語』などで見ることができます。
また、カープといえば「市民球団」「県民球団」と言われることがありますが、その所以は球団創設期の紆余曲折にあります。

『カープの歩み1949-2011』によれば、「カープ」という名前の名付け親で知られる代議士・谷川昇が「カープを一会社、一個人で所有するチームとせず、郷土のチーム、県民の出資によるみんなのチームにする」という構想を立ち上げ、資本金2500万円は広島県、県内5市のほかに県民から株式を公募して捻出する予定だったといいます。

しかしその計画は上手く進みません。県や市の出資額は予定していた2000万円の半分。さらに見込んでいた試合収入は1試合あたりのギャラの取り分が勝ちチーム7:負けチーム3で配分していたことから、弱かったカープへの実入りが少なかったのです。

そうなると台所は火の車。1951年3月にはチームの解散と大洋への吸収合併が決まります。
しかし、その危機を必死で助けたのがカープのスタッフや選手たち、そして市民・県民たちでした。後援会を立ち上げ、当時の石本秀一監督が自ら県内各地の公民館や学校で辻説法を行い、カープの資金集めに奔走します。その一方で「球団をなくしてはならぬ」という想いを背負った市民たちも、それに呼応する形で後援会づくりに尽力。さらに「たる募金」といわれる募金活動や献金も活発になりました。そして、一つの大きな危機を乗り越えるに至ったのです。

その後も幾度となく「球団消滅」の危機に直面し、それを乗り越えながら歩んできたカープ。
今でこそ3連覇に突き進む強さを誇っていますが、その歴史の半分以上は「弱小球団」です。じゃあ、弱小球団なのになんでみんな応援するかって? そこにカープがあるからだよ。立ち向かっている選手たちがいるからだよ。

カープは7月9日から11日の阪神タイガースとの3連戦を中止としました。
平成30年西日本豪雨の被害・影響を見ての判断です。この判断に僕も賛同します。

昨日、広島市のすぐ隣にある府中町の榎川が氾濫を起こしました。
まだまだ被害は拡大しています。
野球興行は娯楽の一つ。こうした被害が拡大している状況において、正直に言えば娯楽は無力であると言えるでしょう。
ただ、すべてが落ち着いて「さあ復興」となったときに、カープはまた一つのシンボルとして市民・県民に勇気とモチベーションを与えるのだと思います。

この災害において亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災地に一日でも早く平穏な日常が戻ることを、心より願っております。

【参考文献】
『カープの歩み 1949-2011』(中国新聞社刊、2012年)
『中沢啓治著作集 1 広島カープ誕生物語』(中沢啓治著、DINO BOX刊、2014年)
『カープ風雪十一年』(河口豪著、青志社刊、1960年、2016年復刊)

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金井元貴

1984年生。「新刊JP」の編集長です。カープが勝つと喜びます。
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audiobook:「鼠わらし物語」(共作)

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