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第一章 瞳 ―スカウト―
第一章 瞳 ―作戦―
第一章 瞳 ―女の幸せ―(7月1日配信!)



第一章 瞳 ―作戦―

 それから一週間経過した六月半ばの金曜日――
 瞳はいつも通り専門学校を終えてから、午後七時に客の川上と南銀座通りの入口で待ち合わせをした。行きつけのダイニング居酒屋で、手羽先や煮込み料理を食べて軽く酒を嗜んでから、午後八時三十分に同伴出勤した。
「じゃ、着替えてくるから待っていてね」
 いそいそと更衣室に入ると、ロッカーにかけてあったはずの瞳のスーツが見当たらない。取り乱して辺りを探すと、奥のごみ箱に他のゴミに紛れて埃まみれの状態で捨てられていた。
――姫の仕業に違いない! あの女……
 怒りで耳まで真っ赤になった。苛めを受けている自分も何だか情けなくて恥ずかしかった。
【あいつらを必ず見返してやる】
 瞳は心の中で誓いを立てた。
 埃を掃ってさっさと着てしまおう。気を取り直して汚れたスーツに手を伸ばすと、横から麗子に遮られた。
「ひどいね、こんなの相手にしちゃ駄目だよ」
 麗子はごみ箱からグレーのスーツをひょいっと拾いあげ、《パンパンッ》と埃を掃った。
「これなんか瞳に似合うと思うよ?」
 麗子は汚れたスーツを紙袋に押し込むと、白いJAYROのスーツを差し出してきた。それは麗子が店でよく着ているお気に入りのスーツだった。
「ありがとう」
 ポロッ――不意に涙が出た。思わぬ優しさに触れて、孤独な自分に気がついた。
 瞳は麗子のスーツに着替えて、涙で崩れた化粧を直してホールに出た。

「お待たせ、遅くなってごめんね」
 四十分も待たされた川上は、ヘルプが作った水割りには口を浸けず、不機嫌そうに腕組みしながら俯いていた。瞳はそっと川上の腕に自分の腕を絡ませて、甘えた口調で囁いた。
「ごめんね。瞳もっと早くつきたかったんだよ! ちょっと困ったことがあって……今までずっとスーツ探していたの。でも結局無くなっちゃったみたい」
 半分嘘をついた。
「えっ!?何で?」
 困惑する川上。瞳は弱々しさを演出しながら、問いかけた。
「実はこのスーツ、さっき麗子ちゃんに貸してもらったの。誰にも言えなくてずっと苦しかった。こんなこと川上さんにしか相談出来ないんだけど……。聞いてくれる?」
「何があった?」
《苛めの上手い対処法その①》指名客を味方につける。二人だけの秘密と言って相談すること。相手が自分は特別な存在と勘違いする。
「私、彩夏さんに苛められているの」
 瞳は目にキラキラと涙を浮かばせながら言った。
「何で!?」
「私がNo.1取っちゃったから。靴が無くなったり、嘘の噂を流されたり、いっぱい嫌がらせされるの。スーツが無くなったのも姫ちゃんがやったんじゃないかな? 疑いたくないけど……。川上さんと一緒にいる時しか、瞳は元気になれないんだよ」
 川上の肩にフワリと頭を乗せる。今日はお気に入りのフレグランスをつけてきた。

 川上の鼓動が速くなる。
「そっか、全然知らなかったよ。瞳独りで辛かったな。これからはなるべく時間作って一緒にいるようにする。俺が傍で瞳を守ってやるよ!」
 次の日、駅前のデパートで川上にCECIL McBEEのスーツを二着買って貰った。姫の恨めしげな顔が何とも心地良かった。
《苛めの上手い対処法その②》弱い立場を逆手にとって客の厚意で得をする。
 簡単に成功した。
 入店した時期が一緒だったせいか、その日を境に自然と麗子と仲良くなった。瞳にとって麗子の存在は何よりも心強かった。サラサラな黒髪が魅力的な麗子は、二十人いるキャスト内で常に上位入りしていた。麗子は彩夏達と違い、集団で群れることはせず、とてもマイペースな性格だった。
 瞳に初めての友達が出来た。
 久しぶりに麗子とテーブルが重なり、二人組のフリー客の席についた。IT関係の会社に勤める長いチリチリパーマ。ベートーベンにそっくりだった。三十八歳にしては老け過ぎている。
「何かお腹空いちゃったなぁ」
 瞳は唇を尖らせながら猫撫で声を出した。
「すいませーん! この子にフードメニュー下さーい!」
「何か喉渇いたぁ~」
「すいませーん! この子にドリンクメニュー! 何でも好きな物頼んでね」
「そろそろチェックしないと終電が……」
「えぇーっ! まだ帰っちゃ駄目」
「よーしっ! このままラストまで延長しちゃうか!」
 ベートーベンは実に嵌まりやすい客だった。初めて会った瞳の言うことを何でもきいてくれた。麗子と瞳は場内指名を貰い、それぞれに連絡先を交換した。その日以来、ベートーベンは頻繁に飲みに来る常連客になった。
 店に数回通った後、ベートーベンから「たまには外で逢いたい」と言われ次の日の同伴を約束した。
大宮駅東口に午後七時に待ち合わせて割烹料理を食べてから、午後九時前に同伴出勤した。
 ベートーベンは一人で飲むことに些か緊張していたけれど、周りに気を遣わない気楽さと、二人きりになれる嬉しさでご機嫌なまま結局ラスト(閉店)まで飲んで帰った。
 その日以降、川上との約束がない日は必ず瞳を同伴に誘ってきた。「二人だけの秘密」と言って、予め苛めを受けている話は聞かせていた。お人好しのベートーベンは酷く同情してくれた。毎日来るようになったし、彩夏達を激しく憎んだ。彩夏や姫達を知り合いから遠ざけるようにしむけ、苛めがある事実を店長や他のボーイに荒々しく抗議し、怒鳴りつけた。
「あんなババア共クビにしろ!」
「誠に申し訳ありません、瞳さんはダリアにとって必要な存在です。私が責任を持って全力でサポートしていきます!」
 新海は形だけの謝罪を表明した。
 土曜日は専門学校が休みだった。ベートーベンとちょっと早めに待ち合わせをして、南銀座通りにあるレストラン・バーで食事をした。
「昨日の酒が朝まで抜けなくて、朝一の会議中に居眠りをしてしまって、上司から大目玉を喰らったよっ! 残業もしないで瞳と会っているから、俺このままだとクビになっちゃうかもな」
 ベートーベンは、ケラケラ笑って言った。
「その時は瞳が代わりに頑張るからね!」
 心にもない言葉で返した。ベートーベンは満面の笑みをたたえて、グラスになみなみと入ったビールを飲み干した。
 午後八時に同伴出勤すると、店はすでに大勢の団体客で賑わっていて、スタッフが慌ただしく動いていた。キャッシャーの前で新海にそっと耳打ちされた。
「瞳、後で花沢さん紹介するから急いで着替えておいで」
 花沢社長――彩夏の太客(大金を遣う客)で店で一番金を落とすエースだった。
《苛めの上手い対処法その③》彩夏のエース、もしくは常連客を取り込む。
 これは保険だ。彩夏は体裁を気にする。客の手前、瞳に下手な手出しが出来なくなる。
「コウちゃん、瞳着替えてくるね」
 コウちゃんとはベートーベンのこと。考太郎だからコウちゃん。二日酔いのベートーベンは、
「早く帰ってこないと浮気しちゃうぞぉ!」
 とウザイ台詞を言い放った。ベートーベンにそんな気は更々ない。この店で一番若いのも、一番童顔なのも、一番胸が大きいのも瞳だから。承知の上で、 「コウちゃんは瞳のダーリンだから、絶対に駄目!」
 とプゥーと膨らました。指名客を喜ばすために多少の演技は必要だ。
「御紹介します、芽衣さんで~す」
 新人のヘルプが丸椅子に座った。
「あっ! 何でも好きな飲み物頼んで下さいね! ねえ~コウちゃんいいでしょ?」
「ああ~もちろんだとも!」
「えっ! あ……じゃあカルアミルク戴いてもいいですか?」
《苛めの上手い対処法その④》明るく謙虚に振る舞って、周囲の人間に彩夏との器の違いを見せつける。
「じゃあ宜しくお願いします」
 瞳はニッコリと微笑んで席を立った。
――花沢社長を絶対に落としてやる
 更衣室で川上に買って貰ったばかりのCECIL McBEEのスーツに着替えた。ギリギリまでスリットの食い込んだミニのスーツは人目を引く。唇にプックリとグロスを塗った。最後にほのかに香る程度のフレグランスをつけた。名前の入った名刺を一枚取り出して、予め携帯番号とメールアドレスを記入し、名刺にもフレグランスをうっすらと振りかけた。匂いが記憶に余韻をもたす。
「瞳さんでーす! お待たせいたしましたぁ」
 新海の付け回しで、最初にベートーベンのテーブルについた。花沢の座っている位置からわざと見えやすい席に座った。
「コウちゃん、お待たせ~」
 勢い良くベートーベンの隣に腰を下ろした。ベートーベンは食い入るように瞳を見回して、
「瞳ぃ~今日は一段と可愛いよぉ! 後で写真撮らせてね」
 とボーイに千円札を渡し、コンビニまでインスタントカメラを買いに行かせた。舐め回すようなベートーベンの視線は実に不愉快だった。
――我慢我慢
 花沢の視線は瞳のスリットに注がれていた。トイレに立つと花沢と目が合った。瞳はニッコリと微笑み、軽く会釈をして通り過ぎた。花沢は瞳の後ろ姿を目で追いながら、ボーイを手招きして、
「おいっ! あの子新人? 名前は何て言うんだ?」
 と瞳の名前を尋ねていた。花沢の注目は自然と瞳に注がれた。これで準備はOK。
「ご紹介致します、当店人気№1の瞳さんでーす」
 瞳は彩夏が他のテーブルで接客をしている隙に、花沢の隣に座った。
「彩夏さんが来るまでお話していてもいいですか?」
 普通No.1はヘルプなどしない。新海もそれを承知で花沢を瞳に紹介した。彩夏の客を奪ってやれ――
そういうことだ。
「君は人気者なんだろう? あのお客さんほっといて大丈夫なの?」
 花沢は上辺だけの心配を口にした。
「あっ見ていたの? さっき目が合ったから勝手についちゃった。瞳、花沢社長と一度お話してみたかったの」
 瞳は頬をバラ色に染めて、無邪気に微笑んだ。
「おぉーい、この子、指名入れといてあげて」
 花沢が新海店長に言った。瞳はさっき書いた名刺をそっと花沢の胸ポケットに入れ、「後で連絡下さい」と耳元で囁いた。
 花沢は瞳の手を《ギュッ》と握りしめてきた。
「瞳さんありがとうございます。彩夏さんで~す」
 絶妙なタイミングで彩夏が席に戻ってきた。花沢に場内指名は貰っていたけれど、瞳も他に指名が重なっていた。瞳は飲んでいたグラスに名刺をのせて立ち上がった。
「ちょっと行ってきます」
「行ってらっしゃーい、すぐに戻ってきてね」
 彩夏は余裕たっぷりに笑いながら瞳に手を振った。花沢に大人げないところは見せられないのだろう。らしくない彩夏の演技は可笑しかった。
 彩夏は自分のロックグラスにヘネシーをなみなみと注いで、流し目で花沢の肩にもたれかかり誘惑していた。満更でもない花沢は、嬉しそうに彩夏の腰に手を回し、時折瞳のテーブルに視線を投げた。
 その様子を遠くから眺めていた麗子は、ヤレヤレとあきれ顔をしていた。
 翌日の昼過ぎに、花沢から電話がかかってきた。瞳はあれから指名が重なって、結局最後の見送りしか出来なかったことを謝った。
 実はこれも計算の内――
 場内指名は席に長く座ってはいけない。本指名にする旨味が無くなってしまう。接客中、瞳は背中に花沢の視線を感じながら、わざと自分の指名客に長くついた。
 彩夏を本指名にしている花沢がいくら店の上客だからといって、場内指名では瞳の売上にならない。花沢にそのことを自覚させる必要があった。営業だと気づかれないほど自然に――。
『全然戻ってこないんだから! つまらなくてチェックしたよ』
 花沢は素直に不満を口にした。
「ごめんなさい。瞳も花沢さんの席に戻りたかったんだけど、あんまりつくと彩夏さんにヤキモチ妬かれちゃうかな? って心配になっちゃったの。瞳、他のお客さんと話してる時もずっと花沢さんのことが気になっていたんだよ」
 口から出任せだった。ここ数ヶ月で実に滑なめらかに嘘がつけるようになった。罪悪感などまるでない。
『火曜日に同伴しよう! 彩夏と約束しているから、人数合わせで俺の部下も連れて行くよ。昇竜飯店に夜七時。来られるか?』
 花沢に瞳の気持ちを試されているような気がした。こんなに早く同伴の誘いを受けるとは予想外だったけれど、チャンスだった。
 あの彩夏と同伴するのだ。彩夏は何て顔をするだろう。考えるだけでドキドキした。
「うん、わかった。昨日のお詫びに必ず行くね」
 花沢の電話を切り、新海に電話をかけた。日曜だろうと、祝日だろうと、新海は必ず電話に出る仕事人間だった。
『もう同伴? 凄いね~! 盗っちゃえ盗っちゃえ。彩夏には俺から瞳も一緒に行くことになったって連絡しておくよ』
 新海は無責任なくらいあっけらかんとしていた。
 薄曇りの肌寒い火曜日――
 約束の十分前に大宮駅西口にあるホテルのエントランスに着いた。
 おぼろげな記憶の彼方――絵里香がまだ小学生だった頃、ピアノの発表会の帰りに一度だけ家族揃ってフレンチ料理を食べに来たことがある。あの頃は四人揃って食事をした。平凡で幸せだった。当時を思い出す。優しい気持ちが甦る――。
【やめろ】
 あいつが遮った。
 何かに背中を押されるように、小走りでエレベーターに乗り込んだ。
【もう昔には戻れない】
 最上階で花沢が待っている。そこには宿敵の彩夏もいる。浮ついた気持ちを引き締めなければ――。瞳は《フゥーッ》とゆっくり深呼吸して、颯爽と二人の待つ[昇竜飯店]に入っていった。

第一章 瞳 ―スカウト―
第一章 瞳 ―女の幸せ―



 

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