だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『いつか王子駅で』堀江敏幸著

提供: 本が好き!

夕暮れに道を歩いていると、夕飯の匂いが漂ってきたり笑い声が聞こえたりする。なんとなく幸せな気分になって、「もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい?」と、“かりゆし58”の<オワリはじまり>を口ずさんだりする。この作品はわが愛するあの歌に似ている。
「夕飯時 町 人いきれ “ただいま”と“おかえり”の色」
「ありふれた日々が君や僕の胸に積もって光る」
「かけがえのない時間を胸に刻み込んだかい?」
うーん、歌詞を抜粋してみたらテーマソングにしてもいいような気がしてきた。

主人公は、都電荒川線の沿線で暮らしている。食べてゆくために時間給講師や翻訳をしていて、お金はないが時間はたっぷり持っている。彼は町歩きが好きだ。王子駅をはじめ荒川線の電車道界隈で出会った人々との小さなエピソードが連なり、実直で心温かな人々の暮らしぶりが描かれてゆく。

彫り師の正吉さん、古本屋の筧さん、定食も出す小さな居酒屋「かおり」のママ。アパートの大家さんは小さな町工場の経営者で、主人公は中学生の咲ちゃんの家庭教師をしている。咲ちゃんが登場すると、ぱっと光が射す。父にとっては亡き妻の忘れ形見、陸上部の花形だけれど英語と国語がたいそう苦手な、「あはは」と白い歯を出して屈託なく笑う咲ちゃんが実に微笑ましい。

主人公は、目の前で営まれてゆく現実の生活を、かつて読んだ文学作品の中の出来事と比べ合わせて物思う。読者には、この人たちを主人公がどう感じているのか、情緒を伴う心象風景として伝わってくる。例えば、『あらくれ』のヒロインお島の性急さと咲ちゃんの活発さは似ているようで異なる、咲ちゃんは心に「のりしろ」を持っていると主人公は感じる。勢いまかせに人にぶつかって痛い思いをさせないような心の余白は、ありふれた言い方をすれば「周囲に対する思いやり」となろう。しかし、主人公はそれを「のりしろ」と表現する。蔵書の重みで床が抜けないような住処を選ぶ主人公の、言葉の端々には品格があり心地よい余韻を残す。

この人、定職もなくてこの先大丈夫なのだろうかと母親目線でチラリと感じてしまった。でも、「変わらないでいたことが結果としてえらく前向きだったと後からわかるような暮らし」をしたい主人公は、自分にとって大事な人や物事をしっかりと見定めている。自分の心に添う暮らしを選ぶのは、もしかしたら究極の贅沢なのかもしれない。読み進めるにつけ、穏やかな幸福感が胸に広がっていった。

(レビュー:Wings to fly

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

本が好き!
『いつか王子駅で』

いつか王子駅で

背中に昇り龍を背負う印鑑職人の正吉さんと、偶然に知り合った時間給講師の私。大切な人に印鑑を届けるといったきり姿を消した正吉さんと、私が最後に言葉を交わした居酒屋には、土産のカステラの箱が置き忘れたままになっていた…。古書、童話、そして昭和の名馬たち。時のはざまに埋もれた愛すべき光景を回想しながら、路面電車の走る下町の生活を情感込めて描く長編小説。

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