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『チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦』大野裕之著【「本が好き!」レビュー】

提供: 本が好き!

右にヒトラー、左にチャップリンを配した表紙絵が印象的である。
映画『独裁者』(The Great Dictator)が公開された1940年のイギリスの雑誌("All Family News Magazine")の表紙絵である。
片や、20世紀最大の恐怖の独裁者、片や、数々の不朽の名作を生んだ喜劇王。
実はこの2人、1889年4月、わずか4日違いで誕生している。
長じて似たようなチョビ髭を生やした2人だが、その生涯が非常に異なることは周知のとおりである。
本作では、映画『独裁者』を軸に、チャーリー・チャップリンがアドルフ・ヒトラーに挑んだ「闘い」に迫る。

チャップリンが監督・主演した『独裁者』というのはなかなか独特の映画である。
喜劇でありながら独裁体制を鋭く批判する。どこか薄ら寒い狂気を孕みながら、全体は笑いに包まれる。
架空の国、トメイニアの政治家ヒンケルと、ユダヤ人の床屋(チャップリン2役)は、運命のいたずらで風貌がそっくりである。
床屋は戦争に駆り出され、負傷の末、記憶喪失となって故国に帰る。人々は彼を温かく迎え、彼はそのうちの1人、ハンナに恋心を抱く。
一方、ヒンケルは政変に乗じて独裁政権を打ち立て、国民の不満をそらそうとユダヤ人迫害を行う。
ヒンケルの側近シュルツは悪政をいさめるが逆に解任される。戦場で彼と知り合っていた床屋はシュルツをかくまう。ヒンケル暗殺を企てるもうまくいかず、床屋とシュルツは突撃隊に捕まって収容所に送られ、ハンナは隣人らと隣国オスタリッチに逃げる。
別の隣国バクテリアでも独裁者ナパローニが誕生しており、ヒンケルとは腹の探り合いである。互いにオスタリッチを侵略しようとしている。
床屋とシュルツは収容所を脱走、オスタリッチを目指すが、国境で警備隊に捕まる。だが、警備隊は床屋をヒンケルと間違える。「独裁者」に成り代わった床屋は、大群衆の前で演説をすることになる。

冒頭の戦場での塹壕シーン、飛行機が逆さになるシーン、逃げようとする床屋が屋上から突き出た角材から荷物をぼろぼろ落とすシーンと、チャップリンお得意のドタバタ喜劇シーンも満載なのだが、出色はヒンケルが風船状の地球儀と戯れるシーンだ。世界を手にしようとする独裁者、その夢は儚くも潰えることが、これほど美しく悲しく怖ろしく暗示されたシーンは二つとないだろう。

名指しこそしていないが、この映画が誰を批判しようとしているのかは明らかである。
ナチスがこれを手放しで許すはずもなかった。
今でこそナチズムの怖ろしさは知られているが、当時は躍進するドイツに好意的な目もあった。構想されたのは1939年。ユダヤ人への迫害もいわゆる最終解決の段階には至っておらず、絶滅収容所の惨状が知られるのははるかに後のことである。
映画の企画段階から、ナチス・ドイツや同盟国イタリアによる罵詈雑言のイメージ戦略だけでなく、チャップリンの母国であるイギリスからも圧力がかかった。制作を進めていたアメリカでも中止を促す動きがあった。脅迫の手紙も多数届いた。
しかし、チャップリンは制作を頑としてあきらめなかった。

本書では、チャップリン家に残された膨大な資料から、制作の裏側を追う。
その過程で明らかになってくるのが、妥協を許さなかったチャップリンの姿である。何度も何度も構想を練り直し、既に撮影したシーンであっても作品にそぐわないと判断すればカットし、実に周到に丹念に作品を作り上げていったのである。ヒンケルの出鱈目ドイツ語演説の部分は、一般的には日本語字幕が付かないが、背景にはきちんと意味がある。このあたりの分析も非常におもしろい。
チャップリンは、最後の最後まで、作品の完成度を高めようとしていたのだ。イデオロギー映画でもプロパガンダ映画でもなく、1つの喜劇映画として。

チャップリンは資料映像として、ヒトラーの記録映画を何度も何度も見ては、独裁者としてふるまうヒトラーの「役者ぶり」に感嘆していたという。
チャップリン自身、ヒンケルの扮装をすると人格が変わるようだったという証言がある。息子によれば、チャップリンはヒトラーについて「半分は恐怖、半分はなんだかひきつけられる思い」を抱いていたという。

「ちょっと考えてみろよ。彼は気違いだよ。私は喜劇役者だ。しかしその反対になっていたかも知れないのだよ」

この言葉はなかなか含蓄深い。

映画は床屋の演説で締めくくられる。
本書もこれを引いて結ばれる。
数々の映画でその姿を知られた小さな「チャーリー」が、床屋であるのに独裁者と間違えられたその男が、実に愚直に理想を語る。額からは汗が噴き出る。
その姿が、徐々に喜劇王チャップリンの素の顔に見えてくる。
「全体主義」という狂気に立ち向かうために、1人の小男が選んだ武器は「笑い」だったのだ。

著者は、研究者でもあるが劇作家でもあり、日本チャップリン協会会長でもある。
チャップリン愛に満ちた1冊。
読めば『独裁者』を見直したくなること必定である。

(レビュー:ぽんきち

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

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チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦

チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦

20世紀に最も愛された男チャップリンと最も憎まれた男ヒトラーは、わずか4日違いで生まれ、同じちょび髭がシンボルとなった。二人の才能、それぞれが背負う歴史・思想は、巨大なうねりとなって激突する。知られざる資料を駆使し、映画『独裁者』をめぐるメディア戦争の実相、現代に連なるメディア社会の課題を、スリリングに描き出す。

この記事のライター

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