だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『薔薇のなかの蛇』恩田陸著

提供: 本が好き!

わたしが書評を書き始めたのは20代前半、大学生の時だった。当時はSNSとしてmixiが流行っていて、読んだ本を紹介する機能があったのだ。
子供の頃から面白かった本は仲間たちと共有していた。大学入学を契機に彼らとは県を跨いで離れ離れになってしまったが、mixiで繋がっていたのでそれを利用して本を仲間同士で紹介し合っていたわけだ。 その後、20代後半から今はなき書評サイトに召喚されて、仲間ではない人々へ向けた書評を書くことになったが、mixi時代の書評は殆ど使えなかった。仲間内の閉鎖空間であるmixiとオープンな空間である書評サイトでは、文章の工夫もお作法も全く違える必要があったからだ。
また、実生活においてもこの時期に学生・研修時代と比べて大きく責任の重さが変わったことが文章に変化を齎したと思う。

今はもうmixiへのログイン方法も忘れてしまったが、あの頃の書評が失われたことが少し悔やまれる。
20代のわたしは、あの本を読んでどう感じていたのだろう。
懐かしさ、居心地の悪さ、物足りない感じ、憧れ、愛おしさ、肩透かしな気持ち、そんな茫洋としたイメージは遺っている。もう一度読み直すとその片鱗は思い出せるかもしれない。でも、40代の確立されたわたしと20代前半の何者でもなかったわたしとは、全くの別人なのだ。
知識量も社会への責任も異性へのスタンスも自己受容も人生設計さえ違う。
初めて読んだ時のあの感覚を追体験するには、当時の言葉を、文章を残しておくより他はなかったのに。

恩田陸が「六番目の小夜子」でデビューしたのが1992年。わたしは出版よりもう少し後、まさに主人公たちと同じような地方の公立進学高にいる立場で彼女たちの高校生活を追体験した。
所謂「三月シリーズ」の第一巻でありながらのちに出版される各作品の習作か試作品のような「三月は深き紅の淵を」は1997年。理瀬が主人公として初登場する「麦の海に沈む果実」は2000年である。
「三月」と「麦の海」の主要人物らと関わりがある男女4人が屋久島を歩きながらすぶずぶと精神の泥沼に沈んでいく「黒と茶の幻想」(いわば大人版「夜のピクニック」)は2001年。
そして、記憶を取り戻した理瀬が再登場する「黄昏の百合の骨」は2004年。
これらの、恩田陸初期作品群がわたしのmixi時代にあたり、手元にこれらの書評は遺っていない。当時大学生のわたしはまだ記憶に新しい高校時代への郷愁と当時の恩田作品の作風であるそこはかとない異世界感を味わいながら、(やはり、恩田作品らしい)ある種の欠落を惜しんでいた筈なのに。

そして(短編などはあったが)17年を経ての新作が本作品である。

ソールズベリーではストーンヘンジが有名だが、物語の第一の舞台はその近隣のエーヴベリーの環状列石遺跡内にある、カントリーハウスである。
レミントン家はかつては武器商人として財を成した新興貴族であった。
来たる10月31日が当主の誕生日ということで、親類縁者が強制召喚させられる。何でも秘められた家宝を公開するというのだが。
就職を控えていた長男アーサーも久し振りに実家に戻ることになるが、折あしく、近隣の遺跡で猟奇殺人と思われる死体が発見されており、父である当主のらしくない振る舞いもあって、屋敷は不穏な空気に満ちていた。
そこに、妹の招待客として美しいアジア系の娘が現れる。大学で美術を学んでいるというその娘は、完璧なクィーンズイングリッシュでリセと名乗った。

物語のもう一つの舞台は、築150年の納屋を改造した音楽スタジオである。
其処は理瀬の盟約者であるヨハンが、音楽家としての作品をーーそして音楽家ではない者としての「作品」をーー練る場所であった。
ある日、ヨハンの知己がスタジオを訪れる。その男は、最近エーヴベリーで起きた不思議で不気味な事件を面白おかしくヨハンに披露するのだが。

読者は、「まさに起きている」事件を理瀬パートで、「起きてしまった出来事」としての事件をヨハンパートでと、交互に時間差を味わいながら謎解きを待つ。

しかし、このシリーズで最も信用できないのが「理瀬」と「ヨハン」なのである。

「理瀬シリーズ」の概要を述べると、まず「麦の海」で記憶を失った理瀬が何者でもない少女として登場する。彼女は怪しい雰囲気の寄宿学校で不穏な事件を体験しながら自分の記憶と立場を取り戻していく。
彼女に「君はこちら側の人間なのだ」と立ち位置を示すのがヨハンである。「こちら」という方角を、2人は「悪」と表現した。が、わたしはこの「悪」という言葉が気に入らなかった。何と安っぽい俗な言葉かと感じた。作品のゴシック調の雰囲気全てがその言葉で台無しになったとも思った。
しかし、それに代わる言葉を初読当時のわたしは持っていなかった。

そして、「百合の骨」では、記憶を取り戻した理瀬が「厭らしい小さな魔女」である自分を受け入れながらも少女らしい繊細さも棄てきれない、そんな僅かな不安定さを覗かせながら登場する。
物憂い喫煙場面や同情から少年をベッドに誘い入れる場面がその不安定さの発露であり、同時に理瀬の魅力でもあった。

では、「薔薇のなかの蛇」ではどうか。
理瀬は最早少女ではない。
若いが成熟した女であり、場と男を支配する力を持つ。
彼女はその力を見せまいと振る舞ってはいるが、敏感なアーサーには不穏さを嗅ぎ付けられている。
この理瀬には、かつてあった不安定さはない。

かつて、わたしは理瀬とヨハンが目指す「悪」という言葉を、陳腐だと感じた。
今なら何故かと言える。
世の中に「悪」も「善」もないからだ。
あるのは異なるベクトルの正義、「正義」という言葉が面映いのであれば異なるベクトルの「都合」、それだけなのだ。
「悪」が存在しないのであれば理瀬も「魔女」ではない。
彼女に魔法は使えない。
彼女はただの女だ。

かつて感じていた理瀬の魅力を感じられなくなったのは――
理瀬が大人になったからだろうか。
わたしが大人になったからだろうか。

こんな時、わたしは年月を惜しく思う。
もっと稚い時代にこの本を読めば、もっと愉しめただろうか、と。
そして、稚かった自分の拙い書評を読みたいと思うのだ。

(レビュー:あかつき

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

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薔薇のなかの蛇

薔薇のなかの蛇

変貌する少女。呪われた館の謎。
「理瀬」シリーズ、17年ぶりの最新長編!

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