だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『赤い十字』サーシャ・フィリペンコ著

提供: 本が好き!

著者と同じ名前の主人公、サーシャは、30歳の青年。ロシアからベラルーシの首都、ミンスクに越してきたばかりだ。
家族に大きな不幸があり、母親が再婚相手と暮らしているこの街に住むことになったのだ。
だが越してきた早々、階の入口ドアに奇妙な赤い十字が描かれているのを見つける。苛立ちながらそれを消すサーシャに、同じ階に住む老婆が話しかけてくる。十字は老婆が描いたもので、アルツハイマーを患っているため、自分の家の目印にするつもりだったのだという。
自分の不幸で手一杯で辟易気味のサーシャに、老婆は強引に身の上話をし始める。
それはソ連の暗部にまつわる、強烈に皮肉な人生の物語だった。

老婆、タチヤーナは、ロンドン生まれ。父に連れられ、1919年にソ連に移住した。数ヶ国語に通じていた彼女は、大学卒業後、外務省に勤めることになる。
その後、結婚。娘にも恵まれた。
産後、職場に復帰した彼女の身の回りは、徐々に不穏になっていく。戦争が忍び寄ってきていたのだ。
やがて開戦。夫は戦地に送られた。
彼女は外務省で書類の翻訳にあたっていた。赤十字からはしばしば、捕虜の名簿を添えて、敵国捕虜との交換を促す手紙が送られてきた。
しかし、ソ連上層部はそれを無視し続けていた。捕虜になるような兵士は腰抜けで、国家の敵だ。交換になど応じる必要はない。
国家は捕虜に冷たいだけではなかった。捕虜になったことが知られれば、国に残っている家族も人民の敵と見なされ、逮捕されることすらあるのだ。

そんな日々の中、タチヤーナは、捕虜名簿の中に、夫の名を見つける。
よかった、生きていた。安堵するとともに、恐怖が押し寄せる。これが上層部に見つかったら。夫は人民の敵とみなされてしまう。機密文書を扱う立場にいる自分が、人民の敵の妻だと知れたらどうなるのか。娘もろとも逮捕されてしまう。
恐怖に動転した彼女は、必死に考え、1つの策を思いつく。
それが、彼女の残りの人生の枷になるとも思わずに。

それほど長くはない作品だが、背後にはおそらく膨大な資料がある。
タチヤーナは架空の人物だが、同じような経験をした人物はそう少なくはないはずだ。

強圧的な政権の下、一度狂った人生は元に戻ることはない。
1つの誤った選択は、誤った道へとつながり、その先のどの道を選んでも、深い森の奥へと迷うばかりだ。
だが、いったい、彼女はどんな選択をすればよかったのだろうか。

薄れゆく記憶を抱えながら、老婆タチヤーナは運命に抗い、神に挑む。
彼女が扉に記した赤い十字は、不幸のきっかけになった赤十字を思わせるようでもあり、死者を悼む十字架のようでもあり、「敵性国家」の国旗を思い出させるようでもある。
神がもしも忘れろと言っても、けっして忘れない。
それは、小さく弱いものの、ささやかだが断固とした決意表明だったのかもしれない。

自身も深い悲しみを背負うサーシャは、次第に老婆に寄り添っていく。
タチヤーナの墓碑に刻まれる言葉は、すべての抑圧された人々の言葉のようでもある。

(レビュー:ぽんきち

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

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赤い十字

赤い十字

ノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ推薦!
「デビュー後すぐに“真剣な”文学作品を描きはじめた稀有な作家」

青年が引っ越し先のアパートで出会った、90歳の老女。
アルツハイマー病を患う彼女は隣人に、自らの戦争の記憶を唐突に語り始めた。
モスクワの公的機関で書類翻訳をしていたこと、捕虜リストに夫の名前を見つけたこと、ソ連が赤十字社からの捕虜交換の呼びかけを無視していたことーー
ベラルーシ気鋭の小説家が描く、忘れ去られる過去への抵抗、そして未来への決意。

この記事のライター

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