だれかに話したくなる本の話

『夢見る帝国図書館』中島京子著【「本が好き!」レビュー】

提供: 本が好き!

「わたし」は、あるとき、上野で、喜和子さんという、ちょっと不思議な雰囲気をまとった白髪の女性と出会い、その後、友だちづきあいをするようになる。
喜和子さんは、幼い頃のことをほとんど覚えていないが、ある一時期、復員兵の「お兄さん」と上野のバラックで暮らしたことを忘れずにいる。
そして、お兄さんが、いつか書きたい、と言っていた、帝国図書館を主人公にした物語を、自分のかわりに「わたし」に書いてもらいたい、と思っている。
「わたし」は小説家だった。

物語は、現在進行形の物語と、「夢見る帝国図書館」の物語とが、交互に進む。というより、現在進行形の物語の間に、帝国図書館の歴史(?)が挿みこまれている。
帝国図書館。今の国会図書館の前身で、福沢諭吉の一声「ビブリオテーキ!」から、産声を上げる。
帝国図書館の歴史は、金欠の歴史であり、瀕死の状態で今日までつながってきたようすだ。いかに図書館が、この国でないがしろにされてきたことか、と思う。
そんな図書館は、毎日通ってくる樋口一葉に恋をし、第二次大戦末期には、動物たちを擁する夢をみる。
歴史に名を残す文士たち、女たちも、ぞろぞろとやってきた。
図書館を主人公にした物語、確かにおもしろい。動かない図書館は、その大きな腹のなかに、膨大な本と、そのまわりの膨大な夢とを抱えて、今日まで旅をしてきたのだ。

やがて……
喜和子さんが亡くなる。
そのことを惜しむさまざまな喜和子さんの友人やら身内やらの言葉に、「わたし」は戸惑う。
「わたし」にとっての喜和子さんは、「いつだって明るかったし、どこか突き抜けていて、とんでもなく個性的だった」が、
それぞれの人が語る喜和子さん像は、それぞれで別人のようだった。
人だもの、いろいろな面があっていい、また、相手によって、印象が違うのもわかる。それでも、なぜこんなに違うのだろうか。
「わたし」は、ある人との出会いがきっかけとなり、喜和子さんの、喜和子さん自身さえも知らなかった彼女の過去の物語を探し始める。

どのように生きたいか、どのように生きたらいいのか。
そんな夢は女には許されなかった時代があった。許されていない、ということにさえも気づかないような場所に追いやられていた。
衣食住が(足りない時代に)足りていたら、他の事を望むのは贅沢なのか。

喜和子さんに「わたし」が出会ったのは、喜和子さんのどんな時代であったか、と思うと、愛おしさが胸いっぱいに広がる。
そうして、「わたし」が喜和子さんのことを、明るく、突き抜けて、個性的だった、と振り返れることを、互いのためによかったよね、と思う。読者である私も、「わたし」の目で、喜和子さんを見ることができたことを、よかったよね、と思う。

個性豊かな登場人物たちは、それぞれに、こちらをはっとさせるような言葉を随所に残してくれている。
たとえば、古尾谷先生の言葉。
「大学なんてものはねえ、洋の東西を問わず、人文学があって始まるのが基本じゃないか。哲学を欠いた理学と医学に、発展があるか。意義があるか」
だから、幕府天文方と種痘所を源流にする東大を、失敗、と言いきる。
また、紗都さんの独特の「魔笛」観。「母と娘」「母親の支配から抜け出して幸せになる娘の話」といい、そこに、どうしても折り合いつけづらい自分と母、母と祖母をみようとする。和解の道をきっと彼女はずっと探していたのだ。
それから、戦争末期、「危険だから」という理由で餓死させられたゾウ達の会話が心に残る。
「いいかい、花子、奴らが俺たちを殺すのは、俺たちが危険だからじゃない。奴らが戦争をしたいからだ。戦争をする心を子どもたちに植え付けるためなんだよ」

なぜ図書館なのかといえば、たぶん、図書館が、ありとあらゆるものにとっての出会いの場所だからだ。
「夢見る帝国図書館」の物語は、遠い過去から、現在へ向かってゆっくりと進んでくる。
「わたし」の物語は、現在から過去へとゆっくりと遡上していく。二つの物語が、どこかで出会い、握手する。
あいさつのことばは、「きわこ」だ。

(レビュー:ぱせり

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